第2話:パチンパチンうるせえよ!

 掃除の時間の廊下は、埃っぽさと、放課後を待ちわびる生徒たちの浮ついた喧騒に満ちていた。俺、佐藤陽太さとうひなたは、まるで魂を抜かれた抜け殻のような手つきで、古びた竹箒を動かしていた。視界に入るのは、ワックスの剥げかけた床の傷と、自分の薄汚れた上履きの先だけだ。一歩、箒を動かすたびに、ズシリと重い後悔が胸の奥に沈殿していく。


「……死んだ。俺の人生、完全に社会的死を迎えたわ」


 誰にも聞こえないほどの小声で呟く。一ノ瀬莉愛いちのせりあに「キモい」と言われ、「ストーカー」と呼ばれた。あの瞬間、俺が16年間の人生をかけて、血を吐くような思いで築き上げてきた「平穏」という名の城壁は、木っ端微塵に粉砕されたのだ。明日から俺は、クラスの女子たちに「フリスクの予言者(笑)」として影で指を指され、グループLINEの格好のネタになるに違いない。放課後の爽やかな風も、今の俺には死刑執行のファンファーレにしか聞こえなかった。


《おいおい、陽太。何をそんなに湿気たツラしてやがる》


 脳内の「真っ白い絶望空間」で、角刈りのおじさんが、これ見よがしにブリーフのウエストゴムを親指で引っ掛け、パチンと鳴らした。その乾いたゴムの音が、俺の頭蓋骨の内側に、湿った音色となって反響する。


(……あんたのせいだ。あんたが『フリスクを渡せ』なんて無茶を言うから、俺は一ノ瀬さんに最低の第一印象を植え付けちまったんだぞ。どうしてくれるんだよ。あんたが責任とって、明日から俺の代わりに学校行けよ。角刈りブリーフで!)


《クカカカ! 責任転嫁とは、若さゆえの過ちだな。いいか陽太、恋愛における『キモい』は、時として『無視できない存在』への昇格なんだよ。無関心が一番の敵だ。今のあいつの心の中はな、お前のフリスクが喉を通り越して、心臓の奥までスースーしてる状態なんだよ。言わば、強制的な清涼感によるマインドジャックだ。お前はもう、あいつの脳内検索履歴のトップに躍り出たんだぜ?》


(適当なこと言ってんじゃねえよ! 耳が赤かったのだって、単にキモいやつに絡まれて血圧が上がったか、あるいは怒りのあまり毛細血管が破裂しただけだろ!)


《お前、あいつの耳の色の『赤さ』を、トマトの赤だと思ってんのか? 違うね、ありゃあ熟れきった高級イチゴの赤だ。いいか、あいつは今、猛烈に混乱してる。……そして混乱は、依存の第一歩だ。あいつは今日一日、ずっとお前のことを考えていた。なぜあいつは私の欲しがっていたものを知っていたのか? なぜ、よりによってあの冴えない佐藤陽太なのか? ……その問いのループにハマった時点で、俺たちの勝ちだ》


 おじさんは、三段に割れた腹を太鼓のように「パンパン」と軽快に叩きながら、脂ぎった顔で不敵に笑った。その自信満々な態度が、余計に俺の、モブとしての生存本能を刺激して震わせる。


 掃除が終わり、放課後のチャイムが校舎に鳴り響くと同時に、俺は最速で教室を脱出した。今は誰の目にも触れたくない。特に、クラスの中心にいる一ノ瀬莉愛と、その派手な取り巻きたちの視線からは、地球の裏側まで逃げ出したい気分だった。俺は掃除用具を片付け、ゴミ袋を焼却炉の前まで運び終える。


 ちなみに『角刈りブリーフの小さいおじさん』は俺の肩に座ってる。まるで妖精が木々に止まって羽休めをするかのように。


 それから俺が向かったのは、旧校舎の三階の突き当たりにある「第二図書室」だ。数年前に新校舎にピカピカの図書メディアセンターができて以来、ここは半ば忘れ去られた古い資料置き場と化している。利用者は一日に一人いるかいないか。老眼鏡をかけた、やる気のかけらも感じられない司書代行の老教師が、カウンターで微睡んでいるだけの、死に絶えた沈黙の聖域。


 重い木の扉を開けると、古い紙の匂いと、少しだけカビ臭い、ひんやりとした空気が俺を包み込んだ。高い窓から差し込む、オレンジ色に燃え始めた夕日が、書棚の影を床の上に長く、鋭く引き伸ばしている。埃の粒子が光の柱の中でダンスを踊っている。ここなら、脳内のおじさんの声も、少しは遠のくかもしれない。そう思った。


 だが。入り口から三つ目の、郷土資料が並ぶ背の高い書棚を曲がった瞬間、俺の心拍数は再び、故障したメトロノームのように異常な速度で暴れ出した。


「……え」


 そこに、いた。古い書棚の間に、不自然なほど華やかで、それでいて場違いな「異物」が。


 一ノ瀬莉愛だ。彼女は窓際の低い木製椅子に腰掛け、長い足を窮屈そうに折り曲げながら、膝の上に一冊の大きな本を開いていた。いつもの「クラスの女王」としての攻撃的な、人を寄せ付けないオーラはどこかへ消え、夕日に照らされた金髪が、透き通るような蜂蜜の色に輝いている。


(な……なんで、一ノ瀬さんがこんなところに……!?)


《クカカ! 運命ってのは残酷だな、陽太。いや、お前にとっちゃ福音か?》


 おじさんが、脳内で鼻の穴に指を突っ込みながらニヤついている。


(おじさん、あんた知ってたんだろ!? 知ってて俺をここに誘導したんだろ!)


《さあな、どうだか。だが、見てみろよ。あいつが読んでる本。……『今日から始める、はじめての和食定食・基本編』。クカカ! ギャルが図書室で和食の勉強だ。しかも、肉じゃがのページで手が止まってるぞ。これ、最高に萌えないか? お前のために作ろうとしてるんじゃねえか?》


 言われて目を凝らすと、確かに彼女が広げているのは、流行りの雑誌でもファッションカタログでもなく、茶色い料理が並んだ地味な実用書だった。一ノ瀬莉愛と、渋い和食。その、あまりのミスマッチさに、俺は困惑する。


 立ち去るべきか、それとも。俺が迷っている間に、床の古い板が「ギィ……」と、間の抜けた音を立てて鳴いた。


 一ノ瀬の肩が、ビクッと跳ねた。彼女は慌てて本を閉じ、バッと弾かれたようにこちらを振り返る。


「……あ、あんた。……佐藤、だっけ」


 彼女は立ち上がった。一ノ瀬莉愛の身長は、女子としてはかなり高い178cmくらい。対する俺は、平均よりは少し高い程度の174cm。狭い書棚の通路で、自分よりわずかに視線の高い、そして圧倒的に顔のいい美少女に立ち塞がれるという状況は、想像を絶する圧迫感だった。彼女は高い身長を少しだけ気にするように、猫背気味に身体を丸め、上から覗き込むような角度で俺の顔を伺っている。


「……奇遇、だね。一ノ瀬さんも、本、好きだったんだ」


「……別に。暇つぶしだし。てか、あんたこそ、何。私のこと追っかけてきたってこと? マジで、フリスクからずっと私をマークしてるわけ?」


 その言葉に、またストーカー扱いか、と胃のあたりが焼けるように痛くなる。だが、脳内のおじさんは、まるで見当違いな、けれど具体的に指摘し始めた。


《おい陽太、あいつの右手の指先を見ろ。本の端を掴む指が、プルプル震えてやがるだろ。緊張してる証拠だ。……それから、あいつの足元をよく見ろ。あいつ、自分の方が身長が高いのがバレないように、必死に膝を曲げて、お前の視線に自分の高さを合わせようとしてやがる。……陽太、今がチャンスだ。攻めろ》


(チャンスってなんだよ! これ以上攻めたら、本当に警察呼ばれるだろ!)


「……あのさ」


 一ノ瀬が、ぶっきらぼうに、けれどどこか縋るようなトーンで切り出した。彼女は、脇に抱えていたカバンの中から、表面が結露で濡れた、紙パックの『いちごオレ』を取り出した。


「これ。あげる。……さっきの、フリスクのお礼。別に、あんたのためにわざわざ買ったわけじゃないから。図書室に来る前の自販機で、ボタン押し間違えただけ。捨てるの勿体ないし、あんた、甘いの好きそうだからあげようと思って。……マジで、押し間違いだから」


 差し出された、不自然なまでに鮮やかなピンク色のパック。彼女の指先は、確かに小刻みに、それでいて必死に震えを隠そうとしていた。


「……え、でも、押し間違えたって……自販機のボタン、コーヒーといちごオレじゃ全然場所が違うし……」


《陽太! そこで理屈をこねるな! この万年DTが! さっさと受け取れ。いいか、今の俺の『千里眼モード』によれば、あいつはこれ買うのに自販機の前で3分間、お前の顔を思い浮かべながら悶絶してたんだぞ。『コーヒーは苦いかな? いちごオレは可愛すぎるかな?』ってな! お前のために、貴重な120円とプライドを投資したんだよ!》


(……3分も!? あの、クラスの女王が自販機の前で!?)


 嘘臭え。だが、もしもおじさんの「リーク」が本当なら、これは単なる押し間違いなどではない。俺は恐る恐る、そのいちごオレを受け取った。彼女の細い指先が、一瞬だけ俺の手に触れる。冷たいいちごオレのパックが、なぜか彼女の体温を宿しているように、じっとりと熱く感じられた。俺の手のひらに、彼女の「緊張」が転写されていく。


「……ありがとう。一ノ瀬さんって、意外と、優しいんだね」


 俺の口から、無意識に言葉が漏れた。脳内のおじさんの言葉に、少しだけ中てられたのかもしれない。


 その瞬間。一ノ瀬莉愛の顔が、火がついたように真っ赤に染まった。夕日の色よりも濃い、鮮烈な赤。


「……っ! はぁ!? 意味分かんないんだけど! どこが優しいわけ!? あんた、マジで頭おかしいんじゃないの!? 脳みそまでハッカが詰まってんの!? 死ぬまでフリスク食ってろバカ!」


 彼女は怒鳴り散らしながら、持っていた料理本で自分の顔を半分隠した。だが、隠しきれていない。金髪の隙間から覗く耳たぶが、そして白いうなじが、リンゴのように真っ赤に燃え上がっていた。


《ひゅ〜! 効いてる効いてる! 陽太、見たかあの顔を! 完璧なクリティカルヒットだ! あいつ、今、心の中で『名前で呼ばれたいな……』とか、『今の私、可愛かったかな?』とか、そんな乙女なこと考えてやがるぞ! クカカカ! 腹いてえ!》


(そんなわけないだろ! 烈火の如く怒ってるだけだろ!)


「……もういい! 帰る! あんたの顔見てると、マジで調子狂うし! 絶対にフリスクのこと、誰にも言わないでよね!」


 一ノ瀬はドタドタと乱暴に足音を立てて、図書室を飛び出していった。後に残されたのは、再び静まり返った室内と、俺の手に残された、冷たくも温かいいちごオレの感触だけだ。



 ◆



 俺は一人、窓際の、彼女がさっきまで座っていた椅子に座り、ストローをパックに突き刺した。吸い込んだいちごオレは、暴力的なまでに甘く、そして、どこか泣きたくなるほど、彼女の不器用さが凝縮されたような味がした。


(……おじさん。あんた、本当は誰なんだ?)


 俺は脳内の角刈りに、心の中で問いかけた。ただの都市伝説にしては、彼女の心の機微を、指先の震えを、耳の色の変化を当てすぎている。


《ただの都市伝説の『小さいおじさん』だ。それから、お前に幸運を呼ぶ恋のキューピットでもあるな》


 おじさんの声から、いつもの茶化すような響きがふっと消えた。彼は脳内で、ブリーフ一丁のまま、黄昏時の夕日を眺めるような、ひどく哀愁の漂うポーズをとった。


《あいつはこれから帰宅して、お前のことを思い出しながら、今日習ったばかりのレシピで、慣れない手つきで夕飯を作るだろうよ。……いつかお前も、その飯を、世界で一番美味そうに食う日が来るかもな。それが幸せかどうかは、お前次第だ》


(……彼女が、俺のために飯を作る? そんな未来、あるわけないだろ。第一、俺たちはただのクラスメイトで、今日初めてまともに喋っただけだぞ)


《あるんだよ。……いいか、恋愛ってのはな、正解を探す効率ゲームじゃない。二人で『間違い』を積み重ねていく、途方もない共同作業なんだ。今日のあいつの赤面も、お前のいちごオレも、全部最高に無様で、最高の間違いだ。誇れよ、陽太》


 おじさんは、満足げに自分の三段腹を「パン」と叩いた。その音は、いつになく穏やかで、父親のような優しささえ孕んでいた。


 いちごオレを飲み干した俺は、空になったパックをじっと見つめる。178cmの彼女と、174cmの俺。4cmの差。けれど、その差を埋めるための何かが、今、この図書室の片隅で、静かに芽吹いたような気がした。


 俺は、彼女が読んでいた料理本を、そっと元の棚に戻した。


「……一ノ瀬さん、か」


 その名前を口にした瞬間、脳内ではおじさんが再び、「ブリーフ一丁での全力コサックダンス」を、三段腹を揺らしながら踊り始めた。


 うるさい。暑苦しい。そして、どうしようもなく、キモい。


 けれど、俺の心は、不思議と夕日よりも温かかった。俺の日常は、もう二度と元には戻らない。なら、この壊れた日常の先を、もう少しだけ、おじさんに振り回されながら見てみたい。


 脳内のおじさんが奏でる、ブリーフのゴムの「パチンパチン」という奇妙なリズムをBGMに、俺はゆっくりと図書室を後にした。

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2026年1月10日 20:20

クラスの美人ギャルに懐かれたが、「角刈りブリーフの小さいおじさん」が恋のアドバイスをしてくるせいで集中できない 駄駄駄 @dadada_dayo

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