第2話
月曜日の朝。
出勤すると、百合さんがリップを塗る手を止め、驚いたように細い眉を上げた。
「あらまぁ、すっごいクマね」
「眠れなくて……」
目を閉じれば、あの深夜の診療室が浮かぶ。アラタと克哉の荒い吐息、乱れたシーツ、激しく軋む淫らな音がフラッシュバックする。
「悩み事があるなら、お姉さんが聞いてあげましょうか?」
百合さんは、美容ドリンクの小瓶を片手に、私の隣へ腰を下ろした。
「なんだか、今朝はいつもよりお肌の調子が良さそうですね」
「あらやだ、わかる? 土曜日の夜から今朝まで、ずっと、彼と愛し合っていたからね」
百合さんは「うふふ」と、怪しい笑みを浮かべた。
「ずっと、ですか……?」
「愛に朝も夜も関係ないでしょう? 終わったと思っても、またすぐに欲しくなって……。もう、身体の芯までとろとろに溶かされちゃったわ」
「と、とろとろ……っ」
その言葉に、昨夜目撃したアラタの姿が重なる。克哉の指に蹂躙され、のけぞって喘いでいたあのアラタ。
「朝日が差し込むころには、心も身体もふわっと熱くなって……ああ、愛香ちゃんにはまだ早かったかしらね?」
百合さんは片手で髪をかき上げ、隠しきれない情事の余韻を漂わせる。その言葉が、私の下腹部をキュンと疼かせた。
私は25歳の大人だけれど、そんな「とろとろになるまで貪り合われる」ような経験なんてない。
「やだ!愛香ちゃん、鼻血出てる!」
そのとき、院長の克哉が入ってきた。
「院長、おはようございますぅ」
「コーヒー淹れますねっ、院長はブラックでしたよね?」
私と百合さん以外のスタッフが、まるで甘えた猫のように克哉にすり寄る。
毎朝の光景だ。メディアでも話題になるイケメン院長。クリニックの水面下では、克哉を巡り熾烈な椅子取りゲームが行われている。
「みんな、おはよう」
そんな熱烈な視線をいつものように涼しくあしらい、真っ直ぐ私のそばにやってきた。
「ん、なんだその鼻のティッシュは」
私のコーヒーを勝手に飲む克哉。
後ろでコーヒーカップを持ったスタッフが凍りつく。突き刺さるような鋭い嫉妬の視線が痛い。
「それに、すごいクマだな。美容クリニックのスタッフとして失格だぞ?」
まったく、誰のせいだと思ってるんだか。克哉をジロリと睨む。
「あとで院長室に来いよ。そのひどい顔、俺が直接『手入れ』してやるから」
またしても、空気がピリッと音を立てた。
私と克哉が親戚でも関係ない。特別扱いは彼女たちの神経を逆撫でするのに。
「さぁ、今日もがんばろう」
克哉が軽く手を叩き、午前の診療がはじまった。
◆◆◆
「失礼します」
ノックをして院長室に入ると、克哉はデスク仕事をしていた。
「先日、取材を受けた雑誌が届きました。こちらに置いておきますね」
「なんだよ愛香。二人だけなんだから、いつも通りでいいのに」
「ここでの克哉は、従兄ではなく上司で雇い主です」
「いいから座れよ。その顔、いつもの可愛い顔に戻すぞ」
ソファの背もたれに寄りかけた私の目元を、熱い蒸しタオルが覆う。視界が遮られ、じんわりと温かくほぐれていく。
「ちゃんとケアしないとダメじゃないか」
頭に触れた克哉の指先。私のこめかみを、ゆっくりと、執拗なまでに円を描いてほぐしていく。
――この指。あの日、アラタの白い肌に這っていた、あの指だ。
そう思った瞬間、心臓が爆音を立て始めた。克哉の指が、まるで私の脳を直接かき回しているような錯覚に陥る。
絶妙な力加減で押し込まれるたびに、背骨を熱い電流が駆け抜け、脚の付け根がじわりと熱を帯びる。
「……んッ」
思わず声が漏れそうになり、焦る。
これはただのマッサージ。なのに、あの光景のせいで、克哉の愛撫を受けているような倒錯した快感に襲われる。
「ねえ、克哉……」
「なに?」
「克哉は、今でも、男性が好きなの?」
震える声で尋ねると、頭上からふっと笑い声が降ってきた。
「愛香はある日突然、女が好きになるのか?」
「……ううん」
「だろ?性癖なんて急に変わらないさ」
数年前、祖父が亡くなったときだ。遺産相続のことから、克哉の結婚話に発展したとき、
『俺は結婚しないよ。男しか愛せないから』と、突然宣言した。
親族みんなパニックになったけど、昔から誰より私を理解してくれる克哉だから、相手が男だって関係ない。克哉が好きになる人は、私も応援する。そう思った。
あのときの直感は、間違っていなかった。
だって、dulcis〈ドゥルキス〉のアラタは、本当に素敵な人だもの。画面越しでしか知らないけど、今までたくさん元気をくれた。キラキラ光るアイドル。
そうだ。刺激的な現場を見たのは事故として、大好きなイトコと推しの幸せを、応援しなければ!
うん、それでいい。
「そうだ。アラタが愛香と会いたいって。今度の日曜日、どうせヒマだろう?」
「え?」
思わず身体を起こしてしまった。目元のタオルが音もなく床に落ちる。
「克哉も一緒だよね?」
「僕はデートだから無理」
「だって、アラタと克哉は、恋人なんでしょ?この前、私――」
言いかけたところで、克哉がニヤリと笑い、顔を少しだけ近づけてくる。親族でもドキリとする綺麗な顔に、思わずのけ反る。
「断言するけど、僕とアラタは恋人関係じゃない」
「じゃあ……、大人の関係?」
「アラタから聞けよ。医者の僕からは患者のことは言えないからな」
混乱を面白がるように、意味深な笑みを浮かべる。
胸の奥で、期待と戸惑いが熱を帯び、渦を巻いて膨らんでいった。
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