第1話
誰もいない受付カウンターで、私はスマホの画面を点灯させた。
待ち受けには、人気アイドルグループ〈Dulcis〉の5人。今夜22時は新曲MVが解禁される。早く事務処理を終えて退勤しないと間に合わない。
「あら、愛香ちゃん。まだ帰らないの?」
背後から響く、艶やかな声。
医師の百合さんが、タイトなスカートからすらりと伸びた足をなびかせてやってきた。
私の勤め先は完全紹介制美容クリニック。スタッフも「美の広告塔」であることが求められる。
「カルテの整理が終わったら帰ります。百合さんはデートですか?」
「土曜の夜だもの。朝までたっぷり抱いてもらうわ」
「は、はぁ」
「じゃ、おつかれさま~」
百合さんは余裕たっぷりの笑みを残し、夜の街へ消えていった。
私にとっての贅沢は、推しを拝むことなんです……!
心の中で叫び、爆速で仕事を終え、入り口に『本日の診療終了』の看板を立てた――その時だった。
重厚な自動ドアが、静まり返ったフロアに低い作動音を響かせた。
「申し訳ありません。本日の診療はすべて終了して――」
反射的に向けた営業用スマイルが、凍りついた。
そこに立っていたのは、目深に被ったバケットハット、色付き眼鏡、そして黒いマスク。夜の闇をそのまま引き連れてきたような長身の男性。
「克哉と、約束してるんだけど」
気だるげに響く声。何度も聴いたあの歌声と同じ、甘い低音が脳を直接愛撫するように揺らした。
呆然とする私の前で、男性はゆっくりとマスクを外した。
「……っ!!」
影ひとつない滑らかな顎のライン、陶器のような肌。唇の端にある象徴的な小さなホクロ。さっきまでスマホで見ていた、そのままの顔。
「君は、もしかして愛香ちゃんかな?」
名前を呼ばれ、呼吸が止まる。名札には名字しか書いていないのに。なぜ。
「あれ、もう来たのか。早かったな」
奥から白衣姿の克哉が現れた。彼は私の従兄であり、このクリニックの院長だ。
「愛香、紹介するよ。このクリニックの、もっとも『手のかかる』VIP客だ」
克哉の言葉に合わせるように、男がゆっくりとサングラスを外した。
「長谷川新です。世間からは、アラタって呼ばれてるけどね」
1時間後には数百万人が焦がれるはずの「神」が、今、私だけを見つめて笑っている。
「……え、ええええええ――――!!!」
深夜のクリニックに、私の絶叫が虚しく響き渡った。
「前々からここに通ってたけど、会うのは初めてだね。愛香ちゃん」
「は、はいぃ」
「想像していたより、ずっと可愛いね」
にこりと微笑まれ、腰を抜かしそうになる。
「他のスタッフには内緒だぞ。じゃあな。気を付けて帰れよ」
克哉がアラタの背中に手を添えるようにして、二人は奥のVIP室へと消えていった。
◆◆◆
夢みたいだ。
駅までの道中、何度も頬をつねった。アラタが職場に。それも、克哉の知り合いだったなんて。
改札前、大きな広告にアラタがいた。彼がプロデュースした香水の広告だ。モノトーンの世界で、白いシャツの胸元に指を添え、挑発するように微笑んでいる。
「かっこいい……」
さっき見たばかりの素顔がフラッシュバックする。
そして、ファンなら誰でも思う。サインが欲しい。手の届かない遠さだったのに、今夜はすぐそばにいる奇跡が起きたのだ。
「このままじゃ、帰れない……」
私は吸い寄せられるように、夜のクリニックへと引き返していた。
◆◆◆
スタッフ用入口から忍び込むと、廊下の灯りは消えていた。
一番奥にあるVIP診療室。ワインレッドの重厚なカーテンの隙間から、淡い光が漏れている。
克哉の好きな洋楽が流れている。そこに混じって、ギシッ、という診察台が軋む音が聞こえた。
「……あっ!」
あれ?なんの音?
「……んっ……そこ……」
鼓膜を震わせたのは、危うい喘ぎ。
「おい、少しは力を抜け。……そんなに締め付けられたら、処置にならないだろう」
克哉の低い囁き。いつも冷静な従兄の声が、今は湿った熱を持って響く。
カーテンに手を掛ける。
わずか3センチの隙間から見えたのは、床に乱雑に脱ぎ捨てられた白衣。
そして、診察台の上で克哉に組み敷かれ、シーツを握りしめているアラタの姿だった。
「っ……あぁ……克哉……っ!」
堪えるように零れたアラタの声に、私の背筋が鳥肌立つ。
診察台がギシギシと激しく軋み、男たちの重なる吐息が、密室の温度を狂わせている。
克哉の背中で見えないけど、その先を想像するのは容易だった。
「そろそろ、いいか……」
「いや……まだ……っ、あ、あああぁっ!」
湿った音と荒い呼吸。ベッドがさらに軋む音。
「……こんな治療、いつまで続けるんだろうな」
「克哉にしか……っ、できないから……」
笑いを含む克哉の声と、悔しそうなアラタの声が、溶け合って私の頭を真っ白にさせる。
やめて。聞きたくない。でも、目が離せない。
大好きな推しが、あんなに淫らな声を上げ、無防備に身体を開いているなんて。
私は、見てはいけないものを覗いてしまった。
クリニックを飛び出し、高層ビルの冷たい風を浴びる。
私の身体の中には、二度と消えない呪いのような熱が宿っていた。
この夜を境に、私の世界はすべて変わった。
二人の、歪んだ独占欲の檻に閉じ込められるために――。
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