第3話
水曜日の夜。指定されたのは、高級ホテルの最上階ラウンジだった。
ガラス一枚隔てた向こうには、宝石をぶちまけたような都会の光が瞬いている。けれど、目の前の存在感があまりに強すぎて、景色なんてちっとも目に入らなかった。
「ありがとう、お洒落してきてくれて」
新調したワンピース、百合さんに手直しされたメイク、母から借りた一粒ダイヤのピアス。報われたようでほっとする。
「何を飲む?ビール?シャンパンにする?」
「さっき、克哉から『絶対に飲むな』と釘を刺されていて」
「あはは、克哉は愛香ちゃんの保護者だね」
いたずらっ子のように笑うアラタ。
「じゃあ、まずは――出会いに、乾杯」
ジンジャーエールなのに、高級なシャンパンみたいに、黄金色で細かな泡が弾けている。
「あの、どうして私を誘ってくれたんですか?」
「アイドルだって普通の人間だからね。たまには可愛い女の子と食事もしたい。キスもしたいし、その先だって……ね。まさか、下心がないとでも思ってた?」
グラスをなぞる細く長い指先からは、隠しきれない大人の色気が零れ落ちている。
誘うような視線に、私は思わず目を伏せる。
克哉に抱かれていた彼を思い出してしまった。暗い部屋と淫らな声。
喉の奥が乾き、呼吸が浅くなる。
「でも、まずは確認してからかな」
「な、何をですか?」
「愛香ちゃんに、聞きたいことがあってね」
不意に、アラタの声から甘さが消えた。
瞳から温度が消え、まるで別人のような氷の視線。射すような視線に、背筋に嫌な汗が伝う。
「あの夜……見たよね?」
「え?」
「俺と克哉の秘密。カーテンの隙間から、のぞき見してたでしょ」
心臓が跳ね上がる。逃げ場を塞ぐような圧迫感。
「写真や動画、撮ったりしてないよね?」
「なっ!」
「 芸能人のスキャンダルは命取り。背負っているものは、愛香ちゃんの想像を遥かに越える。もし、週刊紙にでも売られたら――」
「わ、私……撮っていません! 誰にも言うつもりもありません! 本当です!」
ショックではあったけど、大好きなdulcis〈ドゥルキス〉を陥れるようなことは、考えたこともなかったのに。
必死に訴える私を、アラタはしばらく無言で見つめていたが、やがてふっと表情を崩した。
「ごめん、そんなに怯えないで。克哉にも怒られたよ、『愛香はそんな女じゃない』ってね」
アラタは、グラスの縁に小指を滑らせた。以前CMで見た決めポーズそのままで、あまりの美しさに息が止まりそうになる。
「実はね、ベッド画像が流出したことがあるんだ」
「え、アラタさんが?」
デビューした頃から応援しているけど、そんなスキャンダル聞いたことがない。
「事務所に入ってすぐに人気が出て、調子に乗ってたんだよね。妬んだ先輩がしかけたハニートラップに、まんまと引っ掛かった」
長身で美しい容姿、ダンスも歌も上手いのに、dulcis〈ドゥルキス〉としてデビューしたのは3年前、25歳のとき。
スキャンダルが理由だったのか。
「それ以来、女の子と一緒にいても、身体が全然反応しなくてね。そんな時、心療内科で働いていた克哉を紹介されたんだ」
克哉が美容クリニックを開業する前の話だ。
「色々と相談してたら、どういうわけか『荒療治』が始まってね。要するに、抱かれたわけ」
「ええっ!」
飛躍しすぎな展開に、大きな声を出してしまった。アラタは苦笑しながら、人差し指で『シーッ』と合図する。
「デビューはできないし、自暴自棄だったからさ。それにら克哉とは身体の相性がいいのか、毎回、頭が真っ白になるくらい気持ちよくてさ」
「な、な…」
「愛香ちゃんは知ってるのかな? 克哉のテクニック」
「知りませんよ!知りたくもない」
「そっか。じゃあ……、今度、克哉と3人でどう?」
耳を疑うような提案に、私の思考が完全に停止した。
克哉と、アラタと、私。あの診療室で、三人が交わる光景――。
「私はいたってノーマルです! 恋愛経験だって乏しいです!」
「……ふっ、あはははは!」
アラタが突然、声を上げて笑い出した。
「冗談だよ。克哉はゲイだしね。でも――少しドキッとした?」
図星を指され、言葉が詰まる。悔しくて、でも否定できない自分に絶望する。
「とにかく、俺と克哉に恋愛感情なし。身体の相性がいいだけ」
アラタはワインボトルを持ち上げ、私に視線で「飲まない?」と問いかけてきた。
「す、少し……飲ませてください」
もはやシラフでは聞いていられない。
「愛香ちゃんは俺の秘密を知った。いい機会だと思ってさ」
赤ワインがグラスに注がれる。
「克哉はエロいけど信頼できる。その克哉が愛して信じるイトコの愛香ちゃんは俺のファン。俺も愛香ちゃんなら信頼できそうだ」
アラタはテーブルの上に、1枚のカードを滑らせた。このホテルのルームキーだ。
「俺専用のセラピスト、なんてどう?」
彼の目の奥に、微かな、けれど逃れられない光が宿る。
「え、どういう意味ですか?」
「あれ? 伝わらない? これでも、さっきから、口説いてるつもりなんだけどな」
口説く?アラタが私を?
「あの夜、覗き見してる愛香ちゃんの顔。どこか物欲しそうな表情でさ、あんなに絶望してた俺のモノが、嘘みたいに脈打ったんだ」
「な……っ」
「協力してくれるよね、愛香」
呼び捨てにするのは、反則だよ。
「無理強いはしないよ。さあ、決めて。行く? 行かない?」
ルームキーを、指でトントンと軽く叩いた。
甘い悪魔の囁きのようだった。
『物欲しそうな顔』
そうだ、とっくに見抜かれている。
行けば、もう元の場所には戻れない。でも、私は――。
「い、行きます……!」
私の唇から出た言葉は、誓いのようだった。
「いいこだね」
アラタは満足そうに口角を上げた。その笑顔は、私を酔わせる支配者の顔だった。
私は、秘密と独占欲が絡み合う、禁断の関係に、自ら足を踏み入れた。
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