10.蒼き旗の下に


「敵軍、来ました!」



 伝令の叫びが、張りつめた空気を裂いた。若い兵士が土煙をまとい、息を荒げて駆け込む。


 汗と泥にまみれた顔の奥で、それでも瞳だけはまっすぐに燃えている。恐怖ではない。使命の光だ。




「守備は?」


「はっ! すでにガレス様が兵の配置を完了しております!」




 その報告に続いて、天幕の奥から低く落ち着いた声が響く。




「ルシアーナ様、敵の接近は確認済みです。前線、側面、退路。すべて計算済みです。どうかご安心を」




 ガレスは、日焼けの跡と古傷を刻んだ顔で地図の向こうを見据えていた。


 光が鎧の縁をなぞり、鈍い輝きを返す。その姿に、戦場を知る者だけが持つ重みが宿っていた。私の胸にも、自然と総指揮官としての覚悟が沸いてくる。





「敵の動きは予想の範囲内です。私が先陣を切り、必ず討ち取ります」


「頼んだわ」




 外に出ると、冷たい風が頬を刺した。


 夜明け前の空はまだ淡い群青を残し、草原には白靄が流れている。風に混じる鉄の匂い。戦の匂いだ。


 遠く、地平の向こうに黒い旗がゆらりと揺れた。




「……来た」


 唇から零れた声には、恐れも焦りもない。あるのは、長い準備の果てに辿り着いたこの瞬間への覚悟だけ。





「ルシアーナ様、出陣のご命令を!」


 ガレスの声が空気を震わせた。





 私はゆるやかに右手を掲げ、丘の下に広がる陣を見下ろす。無数の槍先が朝日を受けて光る。風が止まり、一瞬、世界が息を潜めた。





『努力を怠らぬ者に、さらなる力を。この地を、民を、そして未来を守ると女神に誓いし者に、勝利が訪れる』




 声は澄んだ鐘のように広がり、兵たちの胸に響く。





「出陣せよ!」


「おおおおおおおおおおおッ!!!」





 大地が震えた。


 怒号と蹄の響きが混じり合い、風が巻き上がる。


 ガレスは剣を高々と掲げ、鋭く叫んだ。




「全軍、私の指示に従え! 敵を包囲し、動きを封じる! ルシアーナ様の旗を、絶対に守れ!」


 その号令に呼応して、兵たちの声が重なり合う。戦列が波のようにうねりを描き、草原を揺らして動き出した。


 ガレスは先頭に立ち、敵陣の中央へと突き進む。


 槍が閃き、盾が砕ける。彼は寸分の迷いもなく刃を振るい、敵兵の攻撃を受け流しては次の指示を飛ばす。





「右翼、後退! 左翼、槍を構えろ、今だ! 挟み撃て!」



 その声に呼応して、味方の陣形が美しく収束していく。長年訓練されたひとつの身体のように、兵たちは動いた。


 敵軍の先鋒が崩れた瞬間、ガレスは馬を駆って一気に突破した。



 その姿は嵐の中を突き進む黒鉄の刃。仲間の士気を鼓舞し、恐れを知らぬその剣が、戦場の流れを変えていった。


 蒼き旗が高く翻った瞬間。戦の幕は上がった。





*****




 戦は、嵐のように始まり、そして静かに終わりを告げた。




 夜明けに立ちこめていた白靄は昼には晴れ、太陽が天頂を越える頃には、勝敗は明らかだった。




「押し返せ!」


 声が飛び交っても、もはや敵に勢いはない。


 ガレス率いるヴァルデニアの部隊は、無駄のない動きで敵の退路を封じ、冷静に制圧を進めていく。彼の的確な指示腕が、前線を何度も立て直した。そのたびに兵たちは「ガレス様の背を見ろ!」と声を上げ、奮い立つ。



 敵兵たちは包囲され、次第に剣を手放して膝をついた。



 風が、戦場に戻った静寂を撫でる。騎兵の一隊が側面を押さえ、伝令が「降伏勧告」を高らかに叫ぶ。


 すべての音が、嘘のように止んだ。


 






 医官たちが負傷者を迅速に運び、整然とした治療が行われていた。

 

 私は高台に立ち、捕縛された兵たちを見下ろす。




「予想通りとは言え、先触れもなく兵を差し向けるとは――」



 怒りは確かにあった。だがその怒りを、理性が静かに制御する。




 私は天幕へ戻り、すぐさま机に置かれた羽根ペンを手に取った。


 

 筆先が走るたびに心は整いった。無駄な挑発は避けよう。要求は現実的に、相手の面目を完全には奪わぬように、そう思いながら筆を進める。





「先触れもなく兵を差し向けられたことは遺憾である。捕虜の解放を望むのであれば被害の補償について、相応の賠償を請求する」




 短い文面。


 




「ガレス、捕らえた騎士団長を呼びなさい」




 やがて騎士団長が連れられてきた。鎧は深くえぐれ、髪は汗と血で乱れ、顔には泥と消えかけた尊厳が混じる。


 膝をつく彼の肩が、震えているのが見て取れた。


 


「あなたの部下はすべて捕虜とする。だが、無闇に傷つけることはしない。負傷者は医療陣に預ける」


 私の声を聞き、騎士団長は息を呑み、固く目を閉じる。かすかに唇を震わせた。


「……感謝いたします」



 私は書簡を差し出す。




「賠償金を求める、そう書いてあるわ。これを王都へ届けなさい。返書も、貴公自身が持ち帰ること。私の要求と意志を、必ず国王に伝えるように」




 騎士団長はようやく顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えた。汗に濡れた額、ひび割れた唇。



「承知しました」



 私は頷き、解放を命じた。騎士団長は揺れる馬に跨がると、王都への道を走り去っていった。




 天幕の布が元の位置に戻る。私はしばらくその場に立ち尽くした。




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