アリスの森は出口を知らない
桐原悠真
第1話 時間の破れ
森に入ると、
時計が役に立たなくなる。
それは後から知ったことだった。
時計は動いていた。
秒針は進んでいるのに、
僕の時間だけが止まっているようだった。
──時間が壊れたのは、あの違和感を無視したせいだ。
今なら、そう思える。
あの日、僕はただ仕事をしていた。
メールを返し、
資料をまとめ、
上司Aと上司B、どちらの指示を優先するべきか考えながら──
胃の奥が、ずっと重かった。
「この案件、誰が責任取るんだ?」
「お前だろ。」
「いや、彼の判断です。」
その押し付け合いの真ん中に立たされて、
僕は返事すらできなくなっていた。
同僚に相談しても、
返ってくるのは愛想笑いだけ。
本音を吐ける相手なんて、どこにもいなかった。
(何やってるんだ、僕は。)
そう思った瞬間だった。
天井の蛍光灯が、
ちらりと滲んだ。
光が、横切った。
「……なんだ?」
目の錯覚だと思いたかった。
寝不足か、ストレスか、そのあたりだと思いたかった。
だけど──
気づけば、僕は動いていた。
視線が勝手に引き寄せられて、
光を追って、廊下を出ていた。
僕は何を追いかけたんだろう。
光だったのか。
仕事だったのか。
それとも──
少しだけ違う“何か” だったのか。
──そして、足が止まった。
ぐにゃり、と世界が歪んだ。
床が柔らかくなる。
空気が水みたいに揺れる。
「……あ。」
視界が切り替わった。
白い壁も、
蛍光灯の音も、
コピー機の熱もなくなって──
代わりに、
湿った土の匂いと風の音だけがあった。
森だった。
「……は?」
現実だと思いたくなかった。
でも、現実だった。
腕時計を見る。
針は動いている。
なのに、
時間が進んでいる実感はなかった。
――アリスの森。
理由はない。
説明もできない。
ただ直感的に、そう思った。
戻ろうと振り返ったが、
来たはずの廊下はなかった。
道が、消えていた。
「……」
秒針が、
ぐるぐると同じ場所をなぞっている。
止まると同時に、森が息を呑んだ。
「こっちよ。」
耳元で囁く女の声。
「違うわよ。」
「そっちは、また同じところに戻るだけ。」
「それ、あなた仕事でもよくやってるじゃない。」
「……誰だ。」
返事の代わりに、風が吹いた。
「私は、風よ。」
足元の葉がさらりと揺れた。
「あなたのそばに、ずっといたのに。」
「全然気づかないのね。」
「まあ、いつものことか。」
ため息交じりの皮肉が刺さる。
「見ていたわよ。」
「あなた、ずっと仕事してたでしょう?。」
「今はしてない。」
「そう言うと思った。」
軽く笑う声。
「してるのよ。ずっと。」
「頭の中のフォルダ、まだ閉じてないもの。」
言い方は淡々としているのに、
内容はナイフみたいだった。
「そんなことない。」
「あるの。」
「あなた、最近ずっと目が死んでるもの。」
風が刺すように笑う。
「忙しいときの顔も、疲れたときの顔も、諦めたときの顔も。」
「全部、同じじゃない。」
胸がざわりと揺れた。
「そんな顔で仕事して、楽しい?」
言葉が出てこなかった。
「ねえ。」
声が近づく。
「ぐるぐるしてるでしょう?」
「同じ場所を回って、どこにも進めない。」
「だから落ちたのよ。」
落ちた、の響きが残酷すぎた。
「ここはね。」
風は薄く笑う。
「仕事している人が、たまに落ちてくる森。」
「仕事してないのに?」
「してるのよ。」
「身体が休んでも、心が休んでないから。」
「あなたはいつも“仕事の真ん中”にいる。」
逃げ道が塞がれていく。
風が、耳元で囁く。
「あなた、違う場所に行きたいんでしょう?」
息が詰まった。
「図星。」
風は確信したように笑った。
「ぐるぐるするのはね。」
「あの世界にも戻れないし、違う場所にも行けないから。」
風の声が、さらに低くなる。
「違うのよ。」
「あなたが戻りたいのは“場所”じゃなくて、“役割”なの。」
胸が深く抉られた。
「誰かに必要とされる枠がないと、
自分の存在理由が分からないんでしょう?」
風が優しく笑う。
「あなたは、期待を拾って自分を捨ててきたのよ。」
落ち葉がざらりと揺れる。
「上司の顔色。」
「同僚の空気。」
「家族の要求。」
「仕事の成果。」
一つずつ突きつけられるたびに、
胸の奥が痛んだ。
「それで今さら森から出たい? 冗談を。」
風の声が甘く濁る。
「ふふ。ふふふふ。」
「あなたね──」
「自分から迷いに来たのよ?」
返事ができない。
風はそれを愉しんでいるようだった。
「ああ、行かなきゃ。」
急に軽い声に戻る。
「あなたばかり構ってられないし。」
その一言すら胸に刺さった。
「じゃあね。」
「また来てあげる。」
来てあげる、の上から目線。
「戻りたい場所、考えておきなさい。」
「考えないと、この森はあなたを離さないわよ。」
風が去る。
静寂が戻るかと思った、その瞬間。
「ふふ。」
「ふふふふ。」
不気味な残響だけが森の奥に残った。
まるで──
僕の苦しみを味わいながら笑っているように。
時計は止まったままだ。
時間は消えたのではない。
ここでは進まないだけだった。
森の奥で、何かが動いた気がした。
出会いかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
僕は一歩、前へ進んだ。
仕事ではなく。
逃げでもなく。
ただ、歩いた。
――アリスの森の中で。
次の更新予定
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アリスの森は出口を知らない 桐原悠真 @yumastory
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