【外伝―紅鉄の残響―】
(帝国側から見た戦後世界)
ヴァルディア帝国西部、軍都ローディア。
かつて「不落の要塞」と畏怖され、敵国から「紅鉄の牙」と呼ばれたこの都市は、今、異様な静寂に包まれていた。
高い城壁は一つの傷も負わず、街並みも戦火に焼かれることなく残っている。それなのに、人々は声を潜め、足早に通りを歩く。市場の喧騒は遠く、酒場の笑い声さえ控えめだ。
理由は一つ。
――深紅騎士団が、敗れた。
その一言が、都市全体を覆う重い霧のように、誰もが心に抱えていた。
帝都ヴァルディアス、中央玉座の間。
赤黒い大理石で組まれた広大なホール。柱には帝国の紋章である双頭の鷲が刻まれ、天井からは巨大なシャンデリアが冷たい光を落とす。
その中央、黒曜石の玉座に皇帝ヴァルディアス・Ⅸ世が座していた。黒いローブに身を包み、銀の冠を戴くその姿は、まるで動く彫像のようだ。
若い将校、名をカイル・フォン・レーヴェン。まだ二十代半ばの彼は、震える手で分厚い報告書を差し出した。額に汗が浮かび、声が上ずる。
「……報告書は、以上です。陛下」
皇帝はゆっくりと顔を上げた。灰色の瞳に、感情の揺らぎは一切ない。
「……深紅騎士団団長、グラン=ヴァルディス……戦死、か」
カイルは喉を鳴らして頷く。
「……はい。白銀王国騎士団長、レオン・ヴァイスリッターとの一騎討ちの末……グラン殿下は、致命傷を負い……その場で息絶えました。遺体は……白銀側が回収した模様です」
皇帝は短く息を吐いた。ため息とも、確認の吐息ともつかない。
「……剣鬼が……剣に倒れたか」
その言葉に、ホールに控えていた側近たちがわずかに身じろぎした。「剣鬼」――それは敵国がグラン=ヴァルディスに付けた異名。無数の戦場で敵を斬り伏せ、血の海を創り出した男。帝国の最強の剣であり、恐怖の象徴だった。
だが皇帝の声には、怒りも悲しみもなかった。ただ、冷徹な計算が狂ったという、淡々とした確認だけ。
カイルは続けた。
「……我が軍の損失は深刻です。深紅騎士団はほぼ壊滅。《紅鉄軍》の前線部隊も、三割近くを失いました。特に騎士団の精鋭は……ほぼ全滅です」
皇帝は指を組み、玉座の肘掛けに置いた。
「……だが、帝国は滅びていない。帝都は無傷だ。後備軍も健在」
「……はい。白銀王国側も、相当の損害を被ったと報告されています。彼らの騎士団長レオンも、重傷を負った模様です」
皇帝の瞳がわずかに細まる。
「……剣は、確かに強力だった。グラン=ヴァルディスは、我が帝国の剣の頂点だった」
「……しかし……剣一本に頼りすぎた。騎士団を神話化しすぎた」
カイルは言葉を失う。皇帝の言葉は、亡き団長への追悼ではなく、純粋な戦略の反省だった。
その頃、帝都郊外の帝国騎士団訓練場。
広大なグラウンド。かつては深紅の外套を翻す騎士たちが、怒号と剣戟の音を響かせていた場所だ。今は、赤い外套を脱ぎ捨てた騎士たちが、無言で木剣を振るっているだけ。
風が吹き抜け、砂埃が舞う。鉄の音はなく、ただ木と木がぶつかる乾いた音だけ。
若い騎士、エリックが、隣のベテラン騎士にぽつりと呟いた。
「……団長は……本当に、裏切ったのか?」
隣の騎士、ガルドは剣を振る手を止めず、首を横に振る。
「……違う。あの人は……裏切りなどではない」
エリックは息を飲む。
「……じゃあ、なぜ……白銀のレオンと一騎討ちを? なぜ、帝国のために戦わなかった?」
ガルドはようやく剣を下ろし、遠くを見つめた。
「……グラン殿下は、どこにも属さなかった。白銀王国のためでも、帝国のためでもない。ただ……自分の“理想”のためだけに剣を振るった」
エリックは目を伏せる。
「……理想……? そんなもので、帝国の象徴を捨てたのか?」
ガルドの声は低く、苦いが。
「……あの人は言っていたよ。『剣は人を守るためにある。支配するためじゃない』ってな。俺たちは……それを、忘れていたのかもしれん。深紅騎士団は恐怖の象徴だったが、同時に帝国の誇りでもあった。それが失われた今……帝国は、初めて本当の意味で“揺れている”」
周りの騎士たちも、無言で頷く。誰も反論できなかった。グラン=ヴァルディスの死は、単なる敗北ではなく、帝国の価値観そのものを問いかけていた。
帝都の奥深く、皇帝の私的な執務室。
重厚な扉の向こう。書棚に囲まれ、地図と書類が山積みだ。
側近の宰相、オルドリック・フォン・グラウゼが、慎重に口を開く。白髪の老臣は、長年皇帝を補佐してきた男だ。
「……陛下。白銀王国との今後の関係について……どうなさいますか? 停戦協定は結ばれましたが、彼らの女王エリシアは……油断なりません」
皇帝は窓辺に立ち、遠くの国境山脈を眺めていた。雪を被った峰々が、夕陽に赤く染まる。
「……戦争は終わった。剣による征服の時代は、な」
オルドリックは眉を寄せる。
「……では、陛下のお考えは?」
皇帝はゆっくり振り返り、微かに笑った。冷たい、計算高い笑み。
「……支配は、形を変えるだけだ。次は剣ではなく、言葉と契約。経済と外交で、白銀王国を包囲する」
オルドリックは一瞬、表情を曇らせる。
「……白銀の女王エリシアは、侮れません。あの女は剣を振るわず、民の心を掴む。剣なき王ほど、厄介なものはありません」
皇帝の笑みが深くなる。
「……その通り。だからこそ、面白い。剣を置いた国が、どこまで生き残れるか……見ものだ」
オルドリックは黙って頭を下げる。皇帝の目は、すでに次の盤面を見据えていた。グランの死は損失だが、帝国は変わる。剣の時代から、知略の時代へ。
帝国辺境、かつて白銀王国を蹂躙した古い街道。
戦火の跡が残る赤黒い土に、小さな白い花が咲いていた。名もなき野花。風に揺れ、儚く。
そこを、一人の男が通り過ぎる。元深紅騎士団の騎士、名をライナー。鎧は捨て、剣も持たない。ただの旅装の男だ。
彼は足を止め、花を見つめた。
「……団長……」
空を見上げる。雲が流れ、遠くに白銀王国の山々が霞む。
「……あなたは、正しかったのか……間違っていたのか……」
答えはない。風だけが、花を揺らす。
ライナーは深く息を吸い、歩き続ける。
「……次は、剣じゃない。団長が最後に言った言葉……それが本当なら」
彼の瞳には、迷いと決意が混在していた。かつての敵国、白銀王国へ向かう道。
そこには、剣を置くことを選んだ騎士がいるという噂。そして、新たな時代が始まろうとしていた。
帝国の地平に、男の背中が溶けていく。
紅鉄の残響は、まだ静かに響き続けていた――。
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