【第十六章 ――双剣と大剣】

夜明け前の空は、まだ深い藍色を帯びていた。ヴァルディア帝国軍と白銀百合騎士団の激戦が繰り広げられた谷は、昨日の血と泥にまみれ、荒れ果てた大地を露わにしていた。踏み荒らされた草地は、霧のヴェールに覆われ、まるで静かな眠りについているかのように見えた。だが、その静けさは欺瞞だった。誰もが目を凝らし、息を潜め、緊張の糸を張りつめていた。風が微かに草を揺らし、遠くの森から鳥の鳴き声が一つ、響くだけだった。

白銀百合騎士団の本陣では、レオンが馬の鞍に寄りかかり、谷を見下ろしていた。彼の瞳には、疲労の影が宿っていたが、決意の炎は消えていなかった。副官のカイルが、そっと近づいてきた。カイルは若い騎士で、レオンの忠実な部下だった。顔は蒼白く、昨日の戦いの傷跡が頰に残っていた。

「……団長」カイルが声を潜めて囁いた。霧の向こうを指差す手が、わずかに震えていた。「敵将……一騎、前に出てきています。深紅の外套をまとった、あのグラン=ヴァルディスです。単独で……こちらに向かっているようです。」

レオンは静かに頷いた。視線を霧の谷に向け、ぼんやりとしたシルエットを確認した。「……分かっている。約束通りだ。誰も手を出さないよう、伝えておけ。騎士団は待機。俺一人で決着をつける。」

彼は背負っていた二つの剣に手を伸ばした。一つは重厚な大剣――かつての団長から託された、騎士の象徴のような武器。もう一つは双剣――軽やかで鋭い刃が二本、レオンの手になじむように作られたものだった。二つの重みが肩にかかり、レオンは心の中で呟いた。(……これが……俺の答えだ。もう、迷わない。)

谷の中央に、霧がゆっくりと割れた。現れたのは、深紅の外套をまとった男、グラン=ヴァルディス。帝国軍の伝説的な将軍で、かつてレオンの師とも呼べる存在だった。その背中は、年月を経てもまっすぐで、威厳に満ちていた。外套の下には、黒い甲冑が覗き、腰に下げられた大剣は、朝の薄明かりに鈍く光っていた。

「……来たか、レオン。」グランの声は低く、響き渡った。霧が彼の周りを渦巻き、まるで彼自身が霧の一部のように見えた。「約束通り、単独で来た。帝国軍は動かさない。お前も、騎士団を抑えろ。」

レオンは数歩前へ出た。霧が足元を這い、冷たい空気が肌を刺した。「……騎士団は手を出さない。団長同士、これで終わらせる。ヴァルディアの侵略を、ここで止める。」

グランはゆっくりと頷いた。表情は厳しく、しかしどこか穏やかだった。「……それでいい。言葉はもう十分だ。剣で語れ。」

二人は互いに距離を取った。谷の風が強くなり、草を激しく揺らした。霧が薄れ始め、視界が少しずつ開けていく。グランが大剣を抜き、構えた。刃の先が、レオンを真っ直ぐに指していた。「……まずは、その剣で来い。お前の背負う大剣で。団長の剣だ。」

レオンは大剣を前に出した。重い刃が、朝の空気に震えた。彼は深呼吸をし、足を踏み締めた。(……これで、試してみる。託された剣で、どこまでやれるか。)

衝突は、瞬く間に起きた。レオンが駆け寄り、大剣を横薙ぎに振るう。グランの大剣が真正面から受け止め、轟音が谷に響いた。霧が一気に散り、衝撃波が周囲の草をなぎ倒した。

「……っ……!」レオンの腕が痺れた。衝撃が骨まで伝わり、足が後ずさった。(……やはり……敵わない。力の差が、歴然だ。)

技量、体重移動、呼吸――すべてがグランの方が上だった。グランは一歩も動かず、レオンの剣を弾き返した。「……迷いがあるな、レオン。」グランが静かに言った。「その剣は“託された”ものだ。だが、“選んだ”剣ではない。お前の本当の力は、そんなものじゃないはずだ。」

大剣が再び振り下ろされ、レオンの刃を叩き落とした。レオンは膝をつき、息を荒げた。地面に突き刺さった大剣が、わずかに震えていた。

「……立て、レオン。」グランの声は厳しかったが、優しさも混じっていた。「お前は、そんな弱い騎士じゃない。立ち上がれ。自分の剣を見つけろ。」

レオンは息を整え、ゆっくりと立ち上がった。(……そうだ。俺はもう、誰かの影じゃない。託された剣は、確かに重い。でも、俺の道は……)

彼は大剣を地面に突き立て、腰に手を伸ばした。抜刀――双剣が朝の光に輝いた。風が一瞬、変わったように感じられた。双剣の刃が、空気を切り裂く音を立てた。

「……それでいい。」グランはわずかに笑った。目が細められ、懐かしげだった。「それが、お前の剣だ。ようやく、目覚めたな。」

レオンは双剣を構え、駆け出した。双剣が舞うように動き、一撃、二撃、三撃と連撃を放つ。速く、鋭く、予測不能。グランの大剣の懐へ、素早く踏み込んだ。

「……くっ……!」グランが初めて後退した。深紅の外套がわずかに揺れ、足元が滑った。明確な後退だった。

「……レオン。」グランの声が低くなった。剣を構え直し、目を細めた。「お前は、守ることで強くなった。家族を、仲間を、国を。守りたいという思いが、お前の剣を支えている。」

「……そうだ。」レオンは双剣を回転させ、応じた。「お前は、捨てることで強くなった。過去を、罪を、すべてを捨てて、帝国の剣となった。」

グランの大剣が振り下ろされる。レオンは双剣で受け流し、火花が散った。刃が擦れ合う音が、谷に響いた。「……それが、違いだ。」グランが言った。「だが、どちらも正しい道だ。剣とは、そういうものだ。」

レオンは叫んだ。「……だが、どちらも騎士だ! お前も、俺も!」

最後の踏み込み。双剣が深紅の外套を裂き、刃がグランの胸元へ迫った。グランは防ぎきれず、刃が皮膚を浅く切った。血がにじみ、外套が赤く染まった。

刃が、止まった。レオンの手が、わずかに震えていた。

沈黙が訪れた。霧がゆっくりと流れ、朝の光が谷を照らし始めた。

「……終わりだ。」グランが呟いた。声は弱々しく、しかし満足げだった。「よく……やった、レオン。お前は、立派な騎士になった。」

グランは大剣を手放した。重い音を立てて、地面に落ちた。「……帝国との契約は、ここで終わる。俺の罪も……ここまでだ。ヴァルディアは撤退する。お前たちの勝利だ。」

「……まだ、話がある。」レオンの声が震えた。双剣を下げ、グランに近づいた。「斬る前に……聞きたいことがある。お前はなぜ、帝国に与した? かつての仲間を、なぜ裏切った?」

グランは微笑んだ。血が口元から滴り、顔が蒼白くなっていた。「……それでいい。聞いておけ。俺は……国を救うためだった。ヴァルディアの力が必要だった。だが、それは間違いだった。お前のような騎士がいる限り、この国は守られる。……すまなかったな、レオン。」

一歩、二歩。グランはよろめき、崩れるように倒れた。深紅の外套が地面に広がり、血が土に染み込んだ。

レオンはその場に立ち尽くした。双剣が血に濡れ、滴り落ちた。(……終わった。戦争が……だが、この喪失感は、何だ?)

朝日が谷を完全に照らし、白銀百合騎士団の騎士たちが静かに近づいてきた。誰も歓声を上げなかった。ただ、敬意を込めて頭を下げた。

レオンはグランの大剣を拾い上げ、胸に当てて頭を下げた。「……あなたは、最後まで騎士でした。安らかに。」

その日、ヴァルディア帝国軍は撤退した。深紅騎士団は戦場から姿を消し、伝説となった。

戦争は終わった。だが、物語は終わらない。レオンは双剣を背負い、新たな道を歩み始めた。守るべきもの、そして失ったものを胸に。谷の霧は晴れ、青い空が広がっていた。

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