【第十五章 ―白銀と深紅―】
夜明けの薄明かりが、谷を覆う濃い霧をわずかに照らし始めていた。
かつては商人や旅人で行き交っていたこの谷間は、今や血塗られた戦場と化していた。冷たい朝の空気が、兵士たちの息を白く染め、緊張が肌を刺すように張りつめている。
白銀百合騎士団の陣地、谷の東側斜面。
副官のカイルが、団長レオンの傍らに跪き、低い声で報告した。
「団長、配置は完了しました。盾兵を前線に、槍兵をその後ろへ、剣士を両翼に展開。中央には白銀の百合旗を掲げています。」
レオンは、霧の向こうを鋭く見据えながら、頷いた。白銀の鎧が朝露に濡れ、静かに光を反射している。
「……敵の動きは?」
カイルが息を潜めて答える。
「まだ霧の中ですが……まもなく来るはずです。斥候の報告では、帝国軍の主力が谷底に集結している模様です。」
その言葉が終わらぬうちに、霧の奥から微かな音が聞こえ始めた。規則正しい足音。無数の靴底が地面を叩く、重い響き。金属の鎧が擦れ合う、冷たい音。
霧がゆっくりと動き、赤い波が現れる。
《紅鉄軍》――帝国の正規軍。赤く塗られた鉄の鎧を纏った兵士たちが、整然と谷へ降りてくる。
前線の兵士の一人が、震える声で呟いた。
「……帝国軍だ……あの本隊が、こんな辺境まで……」
だが、真の脅威は、その後ろから現れた。
霧が裂けるように分かれ、深紅の外套を翻した集団が姿を現す。
《深紅騎士団》。
彼らの動きは静かで、まるで一つの生き物のように統率されている。深紅の紋章が、朝の光に妖しく輝く。
レオンは、後方の兵士たちに向かって、落ち着いた声で呼びかけた。声は霧を貫き、全軍に届く。
「全員、落ち着け。恐怖を感じるのは当然だ。俺だって、心臓が鳴っている。」
兵士たちのざわめきが、少し収まる。
「だが、恐怖を認めろ。そして、それを力に変えろ。背を向けるな。ここで俺たちは、王国を守るんだ。」
前線から、興奮した声が飛ぶ。
「敵将確認! 深紅騎士団の中央に……グラン=ヴァルディスです!」
レオンは、大剣の柄を強く握り直した。心の中で呟く。
(……来たか、グラン。お前か。)
遠く、霧の向こうに、確かにその姿があった。深紅の騎士団を率いる男、グラン=ヴァルディス。静かに立ち、剣を腰に帯びたまま、こちらを見据えている。
帝国側から、短く鋭い命令が下る。
「――進軍!」
《紅鉄軍》が、谷底へ一気に降り始める。足音が地響きのように響く。
レオンは即座に手を上げ、叫んだ。
「今だ! 弓隊、放て!」
矢が空を覆い、霧を切り裂いて降り注ぐ。悲鳴が上がり、数名の帝国兵が倒れる。
だが、深紅騎士団は微動だにしない。盾を重ね、矢を防ぎながら、ゆっくりと前進を続ける。
深紅騎士団の短い指示が、風に乗って聞こえてくる。
「盾を構えろ。」
「間合いを維持。慌てるな。」
無駄な言葉は一切ない。完璧な連携。
レオンは歯を食いしばり、命令を下す。
「白銀百合、全員迎撃準備! 盾壁を固めろ!」
ついに、両軍が激突した。
金属がぶつかり合う苛烈な音。槍が盾を突き、剣が鎧を斬る。叫び声、うめき声、血が飛び散る音。
深紅騎士団は、まるで鉄壁だった。一人が倒れても、即座に後ろの者が同じ位置を埋め、陣形を崩さない。
前線の剣士が、息を切らして叫ぶ。
「くそっ、抜けない! こいつらの連携が硬すぎる!」
隣の槍兵が、汗を飛び散らせながら応じる。
「一人が動いても、すぐフォローされる……まるで壁だ!」
レオンは自ら前線へ動き、第二隊を支援する。
「第二隊、左翼へ急げ! 隙を作るんだ!」
大剣を振り上げ、敵兵を弾き飛ばす。重い一撃が、紅鉄軍の兵を数人吹き飛ばした。
だが、深紅騎士団は即座に反応する。
グランの声が、冷静に響く。
「囲め。三方向から、同時に。」
三人の深紅の騎士が、レオンを包囲する。動きが速く、息が合っている。
(……速い。予想以上だ……)
レオンの背後へ、一本の剣が迫る。
「団長ッ!」
若い騎士が、盾でレオンの背を庇う。刃がその騎士の肩に食い込み、血が噴き出す。
「下がれ、団長!」
別の騎士が叫び、傷ついた仲間を後ろへ引きながら言う。
「団長を前に通すな! 俺たちが守る!」
その言葉に、レオンの胸が熱くなった。
(……俺は、守られている。この騎士団に……)
戦場の喧騒の中で、グランの声がはっきり響いた。
「白銀百合……良い騎士団だ。忠誠心が強い。」
レオンは剣を構え直し、グランを見据える。
グランが続ける。
「だが、お前たちは“勝ち方”を知らない。ただ守るだけでは、いつか崩れる。」
深紅騎士団が、一斉に踏み込む。攻勢が強まり、白銀百合の陣形が軋み始める。
兵士たちの声が上がる。
「持ちこたえろ! 絶対に退くな!」
カイルが、レオンの傍で叫ぶ。
「団長! 中央が危ない! もうすぐ割られます!」
レオンは一瞬迷ったが、決断する。
(……俺が出るしかない。)
大剣を肩に担ぎ、前線中央へ進む。
「白銀百合騎士団、聞け!」
声を張り上げ、全軍に届ける。
「俺がここに立つ! 俺の前を、誰も通すな! 共に戦おう!」
グランが、一歩前へ出る。深紅騎士団が自然に道を開き、二人の距離が縮まる。
周囲の兵士が息を飲む。
「……来るぞ、団長が……」
距離は十歩、五歩、三歩。
だが、二人は剣を交えなかった。
グランが静かに言った。
「ここは、騎士団同士の戦場だ。まだ、俺とお前が斬り合う時ではない。」
レオンは、息を整え、頷く。
「……分かっている。お前も、同じ考えか。」
二人は互いに視線を交わし、背を向けた。それぞれの騎士団へ戻る。
その瞬間――深紅騎士団が一斉に動いた。
白銀百合の左翼が、崩れ始める。
「っ……!」
レオンは即座に判断する。
「後退! 第二防衛線へ下がれ!」
兵士たちが驚く中、レオンは続ける。
「これは撤退じゃない! 立て直しだ! 生きて、次に備えるんだ!」
白銀百合は、秩序を保ちながら後退する。深紅騎士団も、追撃を控え、陣を整える。
戦いは夕暮れまで続き、谷は血と鉄の臭いで満ちた。
日が沈み、双方が撤退を始めた。
勝敗はつかなかった。
だが、白銀百合騎士団は生き残った。それだけで、帝国軍の想定を覆す成果だった。
夜、陣営の焚き火を囲み、レオンは剣を地面に突き立て、座った。
(……次は、逃げない。必ず、お前を倒す。)
遠く、帝国軍の陣でも、同じ夜空の下。
グランは剣を手に、静かに見つめていた。
(……次は、終わらせる。お前たちの抵抗を。)
白銀と深紅。
二つの騎士団は、この戦いで互いを深く知った。
そして、次なる戦いは――団長同士の、決着の時となるだろう。
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