【第十三章 裏切りの理由】
夜の闇が深く降りていた。
雲に覆われた空は月光を遮り、野営地を照らすのは中央の焚き火の炎だけだった。橙色の火が時折ぱちぱちと音を立て、揺らめく影を周囲のテントや馬のシルエットに投げかけている。
深紅騎士団の野営地は静かだった。兵士たちの大半はすでに眠りにつき、遠くから聞こえるのは夜の見張りの足音と、時折の馬のいななきだけ。
グラン=ヴァルディスは一人、焚き火の近くに座り、剣を膝の上に置いて丁寧に磨いていた。布で刃を拭う手つきは機械的で、まるで心を落ち着かせる儀式のようだった。
刃に映る自分の顔は、まだ老けてはいなかった。三十代半ばの鋭い輪郭、短く刈り込んだ髪、深い傷跡が走る頰。しかし、その瞳には深い疲労が宿っていた。戦いの疲れではなく、心の疲れだ。
「……まだ、騎士ごっこを続けているのか……」
小さな独り言が、火の音に混じって消えた。自嘲の笑みが、わずかに唇を歪めた。
背後から足音が近づいてきた。
「……団長」
声をかけたのは、副長のルドヴィクだった。二十代後半の若さで、グランを補佐する忠実な部下。深紅の外套を羽織り、腰に剣を帯びた姿は、団長に負けず劣らずの騎士らしい威厳を備えていた。
グランは振り返らず、剣を磨く手を止めなかった。
「……帝都から使者が来たそうだな」
ルドヴィクの声に、わずかな緊張が混じる。
「……はい。明日朝に、団長に直接伝えると言っています」
「……分かっている」
グランはようやく手を止め、剣を鞘に納めた。金属の音が静かに響く。
「……だが、今夜は違う。俺の話だ」
ルドヴィクが眉を寄せた。
「……団長?」
グランは立ち上がり、焚き火の前に座り直した。ルドヴィクもそれに倣い、向かいに腰を下ろす。二人の間に火が揺れ、影が長く伸びた。
グランはしばらく火を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……あの日、雨だった」
ルドヴィクは黙って耳を傾けた。団長が過去を語るのは稀だった。
「……王国が滅びた日だ」
グランの声は低く、遠くを思い出すように続いた。
回想の景色が、グランの脳裏に蘇る。
激しい雨が降りしきる中、空を裂くような雷鳴が轟いた。王国の城門が、帝国軍の攻城兵器によって粉砕される音。民の悲鳴と、兵の叫びが混じり合う。
グランは大剣を振り回し、敵兵を次々と薙ぎ払っていた。
「……退けッ!!」
怒号が雨に飲み込まれる。血と泥にまみれながら、部下たちを叱咤する。
「……団長……! 敵が多すぎます!」
部下の一人が叫ぶ。
「……守れ。最後にまで……!」
グランは答えた。だが、心の中で気づいていた。敵は多すぎる。帝国の軍勢は、王国の防衛力を遥かに上回っていた。
剣を振るう。敵を倒す。だが、次から次へと湧いてくる。守るべき民が、後ろで逃げ惑う姿が見える。
「……あの時、気づいたんだ」
グランの声が、現実に戻って低くなった。
「……“力”が、足りなかった」
ルドヴィクが息を呑む音が聞こえた。
「……守るには、俺の力も、王国の力も……足りなかった」
回想が続く。
城の奥、玉座の間。王は玉座に座り、疲れた顔でグランを見ていた。傍らには数人の近衛だけ。
「……グラン」
「……陛下」
王の声は静かだったが、覚悟に満ちていた。
「……国は、もう持たぬ」
グランは膝をつき、頭を垂れた。
「……申し訳ありません」
王はゆっくり立ち上がり、グランの肩に手を置いた。
「……生き延びよ。グラン」
「……この国の“敗北”を、忘れるな」
グランの目が見開かれる。
「……そして、二度と……同じ選択をするな」
それが、王の最後の言葉だった。
グランは目を閉じた。
「……それが、最後の命だった。だが、俺は守れなかった」
ルドヴィクが、初めて口を挟んだ。
「……団長は、最後まで戦ったと聞いています」
グランは首を振った。
逃走のシーン。雨の森。血に染まった鎧。追ってくる帝国軍。
グランは数人の生存者と共に逃げていたが、そこで帝国の使者が現れた。赤い鎧の男。帝国のエリート。
「……力を、やろう」
使者の言葉。
「……代わりに、剣を帝国へ」
グランは、生き残った部下たちを見た。彼らを“生き残らせる”ために。
「……契約だ」
現実に帰り、グランは静かに言った。
ルドヴィクが息を呑んだ。
「……契約……? 王国を滅ぼすための……?」
グランは首を振った。
「……違う。“見届ける”ための」
「……無力な国が、どうなるかを……見届けるための」
帝国の条件は明確だった。
・王国防衛線の情報提供
・城門開閉の時刻の報告
・騎士団の配置図
「……それは、裏切りだった」
グランの声が、わずかに震えた。
「……だが、俺は……“生き残らせる”つもりだった。部下たちを、民の一部を……帝国に降伏すれば助かると」
しかし、現実は違った。
帝国軍の容赦ない虐殺。炎上する街。民の悲鳴。
「……計画は崩れた。帝国は、降伏など受け入れなかった」
ルドヴィクが問いかけた。
「……それでも、団長は帝国に従ったのですか? なぜ、今も深紅騎士団として……」
グランは答えず、剣の柄を強く握った。
やがて、静かに言った。
「……帝国は、強い」
「……強い国は、滅びない」
「……だから、俺はここにいる。強い側に立つことで、守れると思った」
焚き火が大きく爆ぜた。火の粉が舞い上がる。
ルドヴィクは言葉を失っていた。
グランは続けた。
「……だが……レオンが、生きていた。それで分かった」
レオン――かつての王国騎士団の仲間。グランが死んだと思っていた男。
「……俺は、間違っていた」
「……あいつは、“守る”ことで強くなっていた。弱い者を守り抜くことで、帝国にさえ立ち向かえる力を得ていた」
ルドヴィクが、ようやく声を出した。
「……団長……それでは、これから……」
グランは夜空を見上げた。雲が切れ、月が顔を覗かせる。
「……次は、逃げない」
「……契約も、過去も、全て……剣で終わらせる」
深紅の外套が、月光に淡く照らされた。
それは、もはや裏切り者の色ではなかった。
選び続けた騎士の、誇りの色だった。
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