【第十二章 ―団長対団長―】
夜明け前。
空はまだ墨を溶かしたように暗く、戦場全体を濃密な霧が覆っていた。
視界は五歩先すら怪しい。足下の草は冷たい露に濡れ、踏むたびに靴底が沈み、湿った土の匂いが鼻を突く。
風はない。音もない。ただ、遠くで馬の鼻息と、鎧のわずかな軋みが、死の静寂を際立たせる。
レオンは馬を降り、ゆっくりと前へ進んだ。
背後で、騎士たちが息を殺して見守る。誰も声を上げない。誰も近づかない。
ここは、団長同士の領域だ。
副官カイルが、馬上で身を屈め、掠れた声で告げた。
「……団長。敵将が……単騎で、こちらへ」
レオンは答えず、霧の奥を睨んだ。
心臓の鼓動が、耳の奥で響く。
そこに、影が一つ。
深紅の外套が、霧の中で血のように浮かび上がる。
肩に担がれた大剣は、朝の薄明かりを拒むように黒く沈んでいた。
グラン。
かつて、同じ旗の下で命を預け合った男。
レオンは、剣の柄に指を絡めた。金属の冷たさが、掌に染み込む。
指先が、わずかに震えるのを、自分でも感じた。
(……来る)
距離は五十歩。
四十五。
四十。
周囲の兵たちが、自然と円を描いて後退する。
誰も介入を許さない。誰も、許されない。
三十歩。
グランが、口を開いた。
低く、静かで、しかし霧を切り裂くほど鋭い声。
「……久しいな、レオン」
レオンの喉が、干上がる。
「……生きていたとは……思わなかった」
グランは、かすかに鼻で笑った。
その笑いに、嘲りではなく、どこか哀れみが混じっている気がした。
「……あの雨の日。お前は俺に背を向けて逃げた。あれで死んだとばかり」
「……違う」
レオンの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「俺は……お前を庇った」
「庇った、だと?」
グランの声に、初めて感情の棘が乗る。
「……なら、なぜ今、帝国の犬としてここに立っている?」
その一言で、空気が凍りついた。
霧が、まるで生き物のように二人の間に絡みつき、息苦しくなる。
レオンは、唇を噛んだ。血の味が口に広がる。
「……王国は、滅びるべくして滅びた」
グランが、先に答えた。
冷たく、容赦なく。
「弱かった。それだけだ」
「違う……!」
レオンの叫びが、霧を震わせた。
「俺たちは最後まで守った! 民を、領地を、王を……すべてを!」
「守れなかった」
グランは、短く、鋭く遮った。
「それが現実だ」
彼は肩から大剣を下ろし、地面に軽く突き立てる。
重い剣の先端が土を抉り、小さな音を立てた。
「……だから俺は、選んだ。勝つための力を」
レオンは、剣を抜いた。
朝露を帯びた刃が、わずかな光を放つ。
「……お前は裏切り者だ」
「好きに呼べ」
グランも剣を構える。
「だが、現実は変わらない」
次の瞬間――
二人が、同時に踏み込んだ。
大剣と長剣が、激しく衝突する。
――轟音。
衝撃がレオンの腕を伝い、骨まで響いた。
肘が痺れ、剣がわずかに逸れる。
(……重い……! いや、重さだけじゃない……)
グランの一撃は、ただの力ではない。
全ての体重、タイミング、角度が完璧に計算され、受けた側を押し潰す。
レオンは、歯を食いしばって押し返す。
だが、わずか一瞬の遅れ。
グランの剣が、上から叩き下ろされた。
「……っ!」
剣で受け止めたが、衝撃で膝が地面に沈む。
土が跳ね、泥が顔にかかる。
「……これが現実だ」
グランの声は、感情を殺していた。
「お前はまだ、“守る側”の剣を振っている」
レオンは、息を荒げて立ち上がる。
腕が震える。虎口が裂け、血が滴る。
(技術が……まるで別物だ)
同じ師、同じ剣術。
なのに、グランの剣は、別次元にあった。
次の一撃。
横薙ぎに放たれた大剣が、風を切る音を立てて迫る。
レオンは、必死に受け止める。
腕が痺れ、剣が弾かれかける。
「……どうした」
グランの声に、苛立ちが滲む。
「その剣は、かつて俺のものだったはずだ」
「……なら、なおさらだ」
レオンは、血の混じった息を吐きながら叫んだ。
「この剣には……お前が捨てた意志が宿っている!」
グランは、一瞬、動きを止めた。
瞳の奥に、何かが揺れたように見えた。
「……甘い」
再び踏み込み。
レオンの剣が、大きく弾かれた。
体が吹き飛ぶ。
地面を転がり、泥と草にまみれる。
息が詰まり、視界が揺れる。
グランが、ゆっくりと近づく。
大剣を高く振り上げ、朝の薄明かりに刃が鈍く光る。
「……終わりだ、レオン」
その声は、静かだった。
しかし、死の宣告のように重い。
「……まだ、双剣を出さないのか?」
その言葉で、すべてが止まった。
レオンは、地面に片膝をついたまま、顔を上げる。
息が白く、震える。
「……なぜ、本気で来ない?」
グランの声に、苛立ちがはっきり混じる。
「……あの頃のお前は、双剣だった。俺と互角に……いや、時に俺を追い詰めた」
レオンは、ゆっくり立ち上がった。
剣を地面に突き立て、身体を支える。
「……封印している」
「……何故だ」
グランの声が、低く、怒気を孕んで響く。
レオンは、静かに、しかし確かに答えた。
「……この長剣は、先代団長から託されたものだ。俺は団長として……双剣に頼らず、正面から勝つと誓った」
グランは、一瞬だけ目を細めた。
その瞳に、失望と、わずかな哀れみが過ぎる。
「……愚かだ」
彼は剣を構え直す。
「……なら、死ね」
大剣が、振り下ろされる。
その瞬間――
レオンは、後ろへ大きく跳んだ。
同時に、腰の二本の鞘に手を伸ばす。
(……許せ、先代団長)
双剣が、抜かれた。
風が、激しく変わった。
霧が渦を巻き、散開する。
レオンは、両手に短剣を握り、低く身を沈める。
グランが、初めて、本当に笑った。
「……やっと来たか」
その声は、どこか懐かしげで、しかし残酷だった。
「それだ、レオン。本物の、お前だ」
双剣と大剣が、交差する。
速い。
あまりに速い。
レオンの連撃が、大剣の軌道を乱す。
一撃。
二撃。
三撃。
四撃――
大剣の死角を、双剣が容赦なく抉る。
「……っ!」
グランが、初めて後退した。
足が土を蹴り、深紅の外套が翻る。
「……だが」
グランは、息を整えながら、再び踏み込む。
「それでも……俺は選んだ!」
大剣が、横一文字に薙がれる。
レオンは、双剣を交差させて受け止める。
火花が散り、衝撃で二人の身体がわずかに跳ねる。
決着は、一瞬だった。
レオンの右剣が、深紅の外套を裂き、
左剣が、グランの喉元に、紙一重で止まる。
沈黙。
霧が、ゆっくりと二人を包み込む。
息が、白く混じり合う。
グランは、動かない。
剣を下ろしたまま、静かに呟いた。
「……止めか」
喉の剣先が、わずかに皮膚を抉り、血が一筋伝う。
「……斬れ、レオン。今なら、できる」
レオンの手が、激しく震える。
剣が、わずかに揺れる。
「……できない」
声は、掠れ、涙に濡れていた。
「……まだ……お前の答えを、聞いていない」
グランは、ゆっくりと目を閉じた。
そして、開いた。
瞳に、複雑な光が宿る。
「……次は、答えを用意する」
彼は、剣を収め、背を向けた。
レオンも、双剣を鞘に戻し、反対方向へ歩き出す。
二人の背中が、霧の中に溶け、遠ざかっていく。
足音だけが、しばらく響いていた。
前哨戦は、終わった。
だが――
本当の戦いは、
これからだった。
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