【第九章:沈黙の選択】
朝の鐘が鳴り響いた。
王都アストリアの空は澄み渡り、街はいつもの喧騒に包まれていた。
だが、レオンにとって、その鐘の音はまるで葬送曲のように重く、遠く響くだけだった。
城壁の上、彼は一人で地平線を睨んでいた。
風がマントをはためかせ、冷たく頬を打つ。
(……言うべきか……)
(……いや、今はまだ……)
剣を抜くより、はるかに難しい選択。
一度口を開けば、王国は血に染まるかもしれない。
レオンは唇を噛み、拳を握りしめた。
まだ、時ではない。
だが、時間は容赦なく迫っていた。
白銀百合騎士団本部。
団長室。
扉が勢いよく開かれ、副官のカイルが息を切らして飛び込んできた。
「団長! 緊急報告です!」
レオンは即座に立ち上がり、書簡を奪うように受け取った。
蝋の封を破り、目を走らせる。
「西方国境……不明の将が、軍を急速に集結させています。
規模はすでに三千を超え、増援が続いている模様です」
カイルの声が、わずかに震えていた。
「……将の名は?」
レオンの問いかけは、低く、鋭かった。
「……掴めていません。
斥候が近づけず……特徴すら……」
レオンの胸が、激しく締めつけられる。
(……来たか……)
(……もう、始まっている……)
彼は書簡を握りしめ、指が白くなるほど力を込めた。
「……カイル。全騎士団に警戒態勢を強化しろ。
国境線への増派も検討する。
そして……その将の情報を、どんな手段を使っても掴め」
「了解!」
カイルが敬礼し、駆け出していく。
部屋に一人残ったレオンは、壁に拳を叩きつけた。
冷静を装う声とは裏腹に、心臓は激しく鳴っていた。
時間がない。
その日の午後。
玉座の間。
重い扉が閉ざされ、近衛騎士たちも退室した。
残るのは、王とレオン、二人だけ。
王は玉座に座したまま、静かにレオンを見下ろしていた。
老いた瞳に、鋭い光が宿る。
「……レオン。
お前の顔が、死にゆく戦場の顔だ」
レオンは膝をつき、額を床につけた。
「……陛下。
一つ、重大な報告がございます」
王は無言で頷いた。
「……私は、ある“確証のない情報”を握っています」
「……ほう」
「……それが真実であれば……
この王国は、根底から揺らぎます」
沈黙が、ホールに重くのしかかる。
王の指が、玉座の肘掛けを軽く叩いた。
「……その情報の核心は?」
レオンは目を閉じ、息を止めた。
「……名を……明かせません」
王の瞳が、氷のように冷たくなる。
「……それは、騎士の報告とは言えぬ」
「……承知しております」
レオンは顔を上げ、王の目をまっすぐに見据えた。
声が、わずかに震える。
「……しかし、今その名を口にすれば……
王国は内側から崩壊します。
貴族は離反し、民は混乱し、血が流れます」
王はゆっくりと立ち上がり、レオンに迫った。
威圧感が、空気を震わせる。
「……レオン。
そなたは誰の騎士だ」
「……アストリア王国の騎士団長です」
「……何を守る?」
「……この国を」
「……民をか?」
「……はい」
「……そして、王をか?」
レオンは、一瞬、息を詰めた。
喉が熱い。
「……はい」
王は冷たく笑った。
「……ならば、そなたの沈黙は矛盾だ。
王を、民を、国を守るなら……
なぜ、真実を隠す?」
レオンは拳を握り、床を見つめた。
汗が額を伝う。
「……陛下……
真実は、必ず刃となります」
王の声が、低く響く。
「……だが、鞘に収めたままの刃は、錆びるだけだ」
その言葉が、レオンの心臓を抉った。
彼は再び深く頭を下げた。
「……時間を……ください。
必ず、適切な時に……すべてを報告いたします」
長い、長い沈黙。
王は玉座に戻り、深いため息をついた。
「……そなたは、実に危うい男だ」
「……承知しています」
「……だが、同時に……
グラン=ヴァルディスの剣を背負う者でもある」
レオンの体が、硬直した。
(……陛下は……どこまで……?)
王は背を向け、静かに言った。
「……よい。
今は、そなたの沈黙を許す」
「……陛下……」
レオンは震える声で応えた。
王が振り返り、最後に告げた。
「……だが、その沈黙が王国を傷つけた時……
そなたの首は、私が刎ねる」
レオンは即座に答えた。
「……覚悟しております」
王は短く、苦く笑った。
「……覚悟があるなら……まだ、折れてはおらぬ」
夜。
城の回廊。
月明かりが冷たく石の床を照らす中、エリシアが柱の陰に立っていた。
白いドレスが、幽霊のように揺れる。
レオンが近づくと、彼女は静かに出てきた。
「……終わりましたか」
「……はい」
足音が、回廊に響く。
「……言わなかったのですね」
「……ああ」
エリシアはレオンの顔を覗き込み、囁いた。
「……怖いのですか」
レオンは立ち止まり、正直に答えた。
「……怖い。
死ぬほど、怖い」
エリシアの瞳が、わずかに揺れた。
それから、静かに微笑んだ。
「……それで、いいのです」
「……なぜ?」
「……怖くない人は……
簡単に人を切り捨てます。
迷いなく、刃を振るいます」
彼女の声は、冷たい夜気の中で震えていた。
「……怖い人は……
選ぶことを、強いられる。
誰を傷つけ、誰を守るか……
その重さを、背負う」
レオンは彼女の横顔を見つめた。
月光が、エリシアの頬を青白く照らす。
「……私は、あなたが選ぶ時間を……信じたい」
胸の奥が、熱く疼いた。
「……エリシア……」
彼女は首を振り、静かに距離を取った。
「……今は、王女として」
そして、ほんの少し間を置いて、囁くように。
「……でも……味方です。
あなたの、味方」
その言葉だけが、闇の中でレオンの心を支えた。
その夜。
私室。
レオンは、剣を磨いていた。
大剣――重く、威圧的な一振り。
双剣――軽く、迅い二本。
手が、わずかに震える。
(……次に会う時……
お前は、敵だ……)
脳裏に浮かぶ、あの背中。
かつて並んで戦った、同志の背中。
(……それでも……)
剣は、冷たく光るだけだった。
レオンの手は、震えを止めた。
これが、沈黙を選んだ者の覚悟。
選択の時は、すぐそこまで迫っている。
その時、彼は剣を抜く。
誰かを切り、誰かを守るために。
レオンは剣を鞘に収め、窓の外を見上げた。
夜空に、星一つ輝いていない。
嵐の前の、深い闇だけが広がっていた。
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