【第七章:疑念の刃】

疑いは、音を立てない。

それは剣のように鋭く振るわれるものではなく、夜の冷気のように、いつの間にか体温を奪っていく。静かに、確実に、心の奥底を凍てつかせる。

レオンは、その冷たさを日に日に強く感じていた。胸の奥に巣食う違和感が、いつしか重い疑念へと変わっていた。グラン=ヴァルディス――かつての師であり、父のように慕った男。その名が記録に現れるたび、レオンの心は軋んだ。

王城の記録室前。薄暗い廊下に、カイルの足音がぴたりと止まった。

「……団長」

カイルの声は低く、喉の奥から絞り出されるようだった。普段の明るさが完全に消え、額に冷や汗が浮かんでいる。

「……ここから先は……王の許可がなければ……」

レオンはゆっくりと顔を上げ、カイルをまっすぐに見据えた。疲労と決意が混じった瞳が、鋭く光る。

「……すでに得ている」

短く、冰のような声で答えた。カイルは息を呑み、一瞬言葉を失った。それから、震える手で頷いた。

「……わかりました……でも、団長……本当に……」

「黙ってついてこい」

レオンの声に、わずかな苛立ちが混じる。カイルは唇を噛み、無言で従った。

重い扉が、鈍い軋みを上げて開く。埃と古い紙の匂いが、湿った空気とともに二人を襲った。記録室は死人のように静まり返り、窓から差し込む薄い光が、棚の影を不気味に伸ばしていた。

(……ここに、答えがあるとは限らない)

(……だが、逃げられない)

レオンは歯を食いしばり、奥へ進んだ。

「……レグナス王国滅亡前後の外交・軍事記録だ。急げ」

カイルが小さく頷き、別の棚へ向かう。

「……俺は補給台帳を……北西補給線を中心に……」

二人は、息を殺して作業に取りかかった。ページをめくる音だけが、緊張した沈黙を切り裂く。

突然、レオンの指が止まった。

【レグナス王国・防衛会議議事録】

滅亡の二週間前。

息を止めて読み進める。

――敵国の侵攻兆候は極めて薄い。

――大規模動員は不要。

――補給線の維持を最優先。

記名欄。

【軍事顧問:G・V】

心臓が、一瞬止まったような気がした。

(……グラン……)

喉が渇き、息が浅くなる。

(……まさか……)

だが、すぐに別の書類。

【補給路変更命令】

承認者――【G・V】

レオンの手が、冷たく震えた。

「……団長!」

カイルの声が、鋭く響いた。抑えきれぬ動揺が滲む。

差し出された台帳。

「……“北西補給線・第七倉庫”の記録が……ページごと、引き裂かれたように消えてる……」

レオンの視界が、わずかに揺れた。

(……倉庫が空になる)

(……後方が、無防備になる)

(……敵を通す道が、開く……)

すべてが、恐ろしいまでに繋がった。

その夜。騎士団執務室。

レオンは机に突っ伏すように肘をつき、頭を抱えていた。蝋燭の炎が、揺れて影を乱暴に踊らせる。

(……グランが……本当に……)

考えたくない。考えるだけで、胸が裂けそうだ。

ノックが、鋭く響いた。

「……入れ」

エリシアが入ってくる。いつもより足音が重い。

彼女は一目でレオンの異変に気づき、眉を寄せた。

「……レオン……あなた、死人の顔をしているわ」

「……見てくれ」

レオンは、震える手で書類の写しを差し出した。

エリシアは無言で受け取り、読み進める。ページをめくるたび、彼女の指がわずかに強張る。

長い、息を詰めた沈黙。

やがて、彼女は顔を上げた。瞳に、冷たい光が宿っていた。

「……これが……すべて本物なら……」

声が、低く震える。

レオンは掠れた声で答えた。

「……信じたくない……あの人は……最後まで俺たちを……」

言葉が途切れ、喉が詰まる。

エリシアは、ゆっくりと近づき、レオンの肩に手を置いた。冷たい手だった。

「……信じたくない気持ちは、わかる」

「……でも、目を逸らすのは、もう許されない」

レオンは彼女を見上げた。視界が滲む。

「……どうすれば……」

エリシアは、一瞬目を閉じ、それから静かに、しかし鋭く告げた。

「……事実だけを、容赦なく追い続けて」

「……感情は……」

「……剣を抜く瞬間まで、封じておきなさい」

その言葉は、氷の刃のようにレオンの胸を貫いた。

数日後。王城地下・封印文書保管庫。

レオンは一人、松明の灯りを握りしめ、湿った石の通路を進んでいた。足音が反響し、自分の心臓の鼓動と重なる。

空気は重く、息苦しい。

(……これが、最後の記録だ)

重い扉を押し開け、奥の封印された箱を取り出す。

蝋印を、指で震えながら割る。

【特別指令】

――敵襲時、主力を前線に集中。

――後方防衛は最低限に留め、補給線の死守を放棄可。

署名。

【グラン=ヴァルディス】

紙が、レオンの手の中で激しく震えた。

(……なぜ……)

(……なぜ、後方を売った……)

怒りと悲しみが、喉の奥で渦を巻く。

その瞬間――

背後で、微かな衣擦れの音。

冷たい空気が、背筋を這い上がった。

「……やはり、お前だったか」

低く、懐かしく、しかしどこか遠い声。

レオンは、息を止めて、ゆっくりと振り返った。

松明の揺らめく光の中、通路の闇から一人の男が姿を現す。

黒い外套に身を包み、顔の半分が影に隠れている。

だが、間違いない。

死んだはずの男――

グラン=ヴァルディス。

グランは静かに一歩踏み出し、薄く微笑んだ。

「……久しぶりだな、レオン」

その声は、昔と同じ優しさを帯びていた。

だが、レオンの右手は、すでに剣の柄に伸びていた。

松明の炎が激しく揺れ、二人の間に長い影を落とす。

空気が、張り詰めた糸のように、いつ切れてもおかしくないほどに緊張していた。

レオンは、掠れた声で、ただ一言だけ呟いた。

「……なぜ、生きている」

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