【第六章:王国に忍び寄る影】
王都アストリアの城は、静かだった。
静かすぎた。
白銀百合騎士団の詰所から聞こえる声も、城下町の商人の呼び声も、すべてが遠く、薄っぺらに響く。戦後の「回復」など、ただの仮面だ。レオン・アルヴェルはそれを肌で感じていた。
執務室の窓辺に立ち、剣を握る手が震えそうになるのを必死に抑える。
(……来る……何か、来る……)
理由はわからない。ただ、背筋を這う冷たい予感だけが、確かだった。
朝の報告。
副官のカイル・グレンが、書簡を差し出す手がわずかに硬い。
「団長、北街道の巡察報告です」
レオンは無言で受け取り、目を走らせる。
「……異常なし」
声が低く、鋭い。
カイルが頷くが、その瞳に不安がちらつく。
「盗賊の動きも、完全に沈静化しています」
レオンは書簡を机に叩きつけるように置き、カイルを睨んだ。
「……“完全に”、か」
カイルが一歩下がる。
「……何か、団長?」
レオンは唇を噛み、吐き捨てるように言った。
「……盗賊が、そんなに簡単に大人しくなると思うか?」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
カイルの喉が、ごくりと鳴る。
午後、城壁の上。
風が冷たく頬を切る。
レオンは一人、街を見下ろしていた。平和なはずの景色が、なぜか墓標のように見える。
「……静かですね」
背後から、エリシアの声。普段より低く、張り詰めている。
レオンは振り返らず、答えた。
「……静かすぎる」
エリシアが一歩近づく。彼女の息遣いが、わずかに乱れている。
「……あなたは……顔色が悪い」
「……感じるんだ」
レオンは初めて彼女を振り返り、目を細めた。
「……何かが、すぐそこまで来ている」
エリシアの瞳が揺れる。
「……昔……グラン団長も」
言葉を切り、彼女は唇を噛んだ。
「……同じことを言いました。“静かすぎて、耳が痛い”と」
レオンの背筋に、氷のようなものが走った。
「……それは……いつだ?」
エリシアは目を伏せ、震える声で答えた。
「……戦が始まる……三ヶ月前です」
二人の間に、風だけが鋭く吹き抜けた。
夜の騎士団会議室。
蝋燭の炎が、揺らめくたびに影が踊る。
老騎士マルド=エヴァンスが、声を抑えて報告する。
「東方国境の補給量が……予定を三割超過しています」
レオンが机を叩く。
「……誰の承認だ」
マルドは額に汗を浮かべ、答えた。
「……王城補給局です。公式に」
部屋の空気が、凍りついた。
「……敵の動きは?」
「……静穏。まったくの無風状態です」
レオンは立ち上がり、声を絞り出した。
「……静かすぎる……すべてが、静かすぎる!」
幹部たちが顔を見合わせる。誰も口を開けない。
会議後、薄暗い廊下。
レオンはカイルを壁に押しつけるようにして止めた。
「……補給局の動きを、すべて洗え」
カイルが息を呑む。
「……団長、それは……」
「不自然な書類の承認、予算の流れ、人の動き……すべてだ」
レオンの目が、獣のように光る。
カイルは小さく頷き、囁いた。
「……実は……すでに、妙な点が……」
「……言え」
「通るはずのない案件が、一夜で承認されています。まるで……誰かが急いでいるように」
レオンの拳が、壁を叩く。
(……内部に、裏切り者がいる……)
別の日、訓練場。
若い騎士が、汗だくの顔でレオンに駆け寄る。
「……団長! 夜の城壁巡回が……半分に減らされました!」
レオンが剣を握る手が、白くなる。
「……誰の命令だ」
「……補給局と城務局の合同指示です。“効率化”だと……」
レオンは歯を食いしばり、空を見上げた。
(……道を空けている……敵を、招き入れている……)
その夜、執務室。
蝋燭一本の灯りの下、レオンは地図に赤い線を引いていた。
補給路、巡回削減区域、整備された街道――すべてが、一つの方向を指している。
「……敵が来る……ここから来る」
声が、震えていた。
扉が、静かにノックされる。
「……入れ」
エリシアが入ってきた。彼女の顔が、青白い。
「……レオン様……まだ……」
レオンは地図を突きつける。
「……見ろ。これだ。敵が最も楽に侵入できる道だけが、整えられている」
エリシアの手が、地図の上で震える。
「……これは……」
「……裏切りだ。内部に、敵の目がいる」
エリシアは息を呑み、レオンを見上げた。
「……証拠は?」
「……ない」
レオンは拳を握りしめ、声を絞った。
「……だが、感じる。グラン団長が感じたのと同じ……死の匂いを」
エリシアは一歩近づき、レオンの腕を掴んだ。
「……私も……感じます」
その手のひらが、冷たかった。
「……あなたを信じます。たとえ世界が平和だと言い張っても……私は、あなたのこの恐怖を、信じます」
レオンの胸が、張り裂けそうになった。
感謝と、恐怖と、怒り――すべてが渦を巻く。
その頃、王城の奥深く、闇の廊下。
一人の人影が、壁に身を寄せて立ち止まる。
小さな魔導通信器に、囁く。
「……はい……予定通りです」
声は、氷のように冷たい。
「……白銀百合のレオン・ヴァルドールは……まだ、確信を持てずにいます」
一瞬の沈黙の後、くすりと笑う。
「……もうすぐです。王国は……内側から、開かれます」
足音も立てず、人影は闇に溶けた。
誰にも気づかれず。
ただ――
王国の心臓部で、裏切りの刃が、静かに、しかし確実に、振り下ろされようとしていた。
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