【第四章:血に濡れた戦場の跡】
その場所は、地図上ではすでに無意味な境界線に過ぎなかった。
アストリア王国と、滅び去ったレグナス王国の旧国境。かつては賑わう街道だった道は、今やぬかるんだ赤黒い泥土に変わり果て、足を踏み入れるたびに重い音を立てて沈み込む。
白銀百合騎士団の斥候が、馬を止め、低い声で告げた。
「……ここです、団長代理」
レオンはゆっくりと馬から降りた。ブーツが泥に沈み、嫌な粘つく感触が足裏に伝わる。
「敵軍が撤退した後も……誰一人、戻ってきていません。生存者の報告も、遺体の確認も……一切」
斥候の声は震えていた。戦場を何度も見てきた男でさえ、この場所の異様さに耐えかねているようだった。
レオンは頷き、馬の手綱を斥候に預けた。
(雨は……もう三日前に止んだはずだ)
空は澄み渡り、穏やかな青が広がっている。それなのに、大地はまだ血と泥にまみれ、戦争の傷跡を鮮やかに残していた。空気には鉄錆びたような血の臭いが混じり、息をするたびに喉が痛む。
「……団長」
背後から、エリシアの声がした。彼女は今、王女の華やかな衣装ではなく、簡素な旅装に身を包み、視察に同行する一人の少女としてここにいる。長い金髪を風に揺らし、不安げにレオンの背中を見つめていた。
「……無理はなさらないでください。ここは……あまりにも」
エリシアの言葉は優しく、しかし心配に満ちていた。彼女はレオンの過去を知っている。この戦場が、彼にとってどれほど特別で、痛みを伴う場所かを。
レオンは首を振り、静かに答えた。
「……行きます。行かなければならないんです」
この場所に来なければならなかった。避け続けてきた過去と、向き合うために。
一行はゆっくりと進んだ。戦場は、異様な静けさに包まれていた。
風が吹いても、鳥のさえずりは聞こえない。虫の羽音すらなく、ただ沈黙が支配する。
折れた槍が無数に突き立ち、砕けた盾が散乱し、血に染まった外套が泥に埋もれている。時折、腐敗した肉の臭いが鼻を突く。
レオンは自然と足を止めた。
(……ここだ)
胸の奥が、鋭く痛んだ。息が詰まり、視界がわずかに揺れる。
――記憶が、鮮やかに蘇る。
雨が激しく降りしきる中、叫ぶ声。
「副団長! 退け!」
グラン=ヴァルディスの声だった。あの大きな背中が、敵の波を一人で受け止めていた。
「……生きろ、レオン。お前は生きて、騎士団を……」
「団長! 待ってください! 一緒に――」
「……騎士団は、俺が守る。最後の壁として、ここで食い止める」
グランは振り返らなかった。巨大な大剣を構え、敵軍に向かって突進していく。あの背中は、決して揺るがなかった。
「団長――!!」
レオンの叫びは、雨に飲み込まれた。グランは振り返ることなく、戦い続けた。そして……二度と戻らなかった。
現実に戻り、レオンは息を吐いた。額に冷たい汗が浮かんでいる。
「……レオン」
エリシアが、そっと近づき、声をかけた。彼女の目は心配と優しさに満ち、レオンの腕に軽く触れた。
「……あなたの……大切な場所なのですね」
「……はい」
レオンは短く答え、言葉を遮らなかった。エリシアは黙って隣に立ち、レオンのペースに合わせて歩き始めた。
一歩、また一歩。泥を踏む音だけが響く。
そして――それは、そこにあった。
地面に深く突き立てられた、大剣。
刃は欠け、血と泥に厚く覆われ、それでも折れていない。頑強に立ち、まるで主の意志を今も守っているかのように。
「……グラン……」
レオンの口から、自然とその名が漏れた。
グラン=ヴァルディス。
レグナス王国騎士団の元団長。“剛剣の化身”と畏怖され、“動かぬ壁”と称された伝説の男。
その愛剣――ヴァルディス・クレイモア。
レオンは膝をつき、ゆっくりと剣に手を伸ばした。剣の根元には、血に染まったマントが絡みつき、泥に半ば埋もれていた。
マントを拾い上げると、ずしりと重い感触が腕に伝わってきた。かつてグランが羽織っていたものだ。まだ、かすかにあの人の匂いが残っている気がした。
(……こんなに……重かったのか)
いや、違う。
重くなったのは、剣ではない。この重みは、思い出と後悔と、失われたものの重さだ。
「……団長……」
喉が詰まり、声が震えた。
「……俺は……生きてしまいました。あなたの背中を、最後まで見送って……逃げてしまいました」
返事はない。当然だ。
だが、突然、風が強く吹き、剣がわずかに振動した。金属の鳴る音が、静かな戦場に響く。
――まるで、「それでいい」と許すように。
レオンの目から、熱いものが零れた。涙は泥に落ち、すぐに吸い込まれた。
エリシアが、後ろに立ち、静かに見守っていた。
「……レオン。この剣は……グラン団長のものですね」
「……はい」
レオンはゆっくり立ち上がり、剣を握った。重く、冷たい。それでも、手に馴染む感覚があった。
「……この剣は、どうなさいますか?」
エリシアの声は優しかった。彼女はレオンの決意を感じ取り、静かに尋ねた。
レオンは剣を胸に抱き、答えた。
「……俺が……持ちます」
一瞬の沈黙。
「……持つ、というより……」
剣を背負うように構え、レオンは続けた。
「……背負います。この重みを、俺の背に」
エリシアは深く頷き、穏やかな笑みを浮かべた。
「……なら……あなたは、もう逃げていないんですね」
その言葉が、レオンの胸に深く刺さった。痛みと、救いのように。
――
その夜、レオンは一人で武具庫にいた。薄暗い灯りの下、壁に掛けられた自分の長双剣を見つめている。
(……これで、俺はここまで来た)
柄に手を伸ばす。思い出が、次々と溢れ出す。
初陣の緊張。勝利の喜び。仲間たちの称賛。そして、グランの笑い声。
「……強くなったな、レオン。お前はもう、立派な騎士だ」
あの時、グランはそう言って肩を叩いた。
「……まだです。団長のように、皆を守れるほど強くは……」
「……いや、十分だ。だが……覚えておけ」
グランの目は、真剣だった。
「……剣は、使い手を選ぶ。お前が本当に守りたいものを、剣は知っている」
レオンは静かに双剣を外し、柔らかな布で丁寧に拭いた。一つ一つの傷を、愛おしむように。
「……俺は、この剣では……あの背中に追いつけない」
息を深く吸い、吐く。
双剣を封印箱に納め、蓋を閉じた。
――静かな音が響いた。それは、過去を閉じる音だった。新しい道を選ぶ音だった。
――
翌朝、レオンは城壁の上に立っていた。
背中には、グラン=ヴァルディスの大剣。ヴァルディス・クレイモア。
その重みが、一歩ごとに骨に染み、肩に食い込む。息が少し苦しい。それでも、倒れそうで倒れない。
「……不思議だ……」
レオンは独り言のように呟いた。
「……こんなに重いのに……倒れそうなのに、立っていられる」
隣にエリシアが立ち、穏やかに微笑んだ。
「……それは……」
彼女は空を見上げ、続けた。
「……あなたが、もう一人じゃないから。グラン団長の意志も、騎士団の仲間も、私も……皆が、あなたを支えているんです」
レオンは前を見据えた。遠くの地平線に、朝日が昇り始めている。
(……団長)
心の中で、静かに告げる。
(……俺は、この剣でまだ戦います。あなたの壁を超えて、皆を守るために)
この剣は、ただの武器ではない。
それは、誓いであり、罪の記憶であり、未来への橋だった。
――そして。
この剣が、やがて再びかつての主と向き合う日が来ることを、
この時のレオンは、まだ知らない。
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