【第二章:雨の街道を越えて】

雨は刃のように肌を切り、視界を白く塗り潰していた。

盗賊の喉を掻き切った剣から、血と雨が混じって滴る。レオンは息を潜め、森の奥を睨み続けた。気配は消えた――だが、静寂は常に次の殺意を孕んでいる。

「……ここに留まれば、死ぬぞ。」

声は低く、鋭く、雨音を裂いた。

少女は馬車の縁を白くなるほど握りしめ、頷いた。瞳に残る恐怖を、必死に押し殺している。

(普通の娘じゃない……この冷静さは、血で買ったものだ)

御者の呻きが、泥の中で弱々しく響く。

「……足を……斬られて……動けねえ……」

少女の声が、わずかに裏返った。出血は止まっているが、御者は死にかけている。

「雨をしのげる場所は? 今すぐ答えろ。」

レオンの問いが、剣のように突き刺さる。

「……半刻先……石の祠が……」

「なぜ、そんな場所を知っている?」

疑念を剥き出しにした問い。

少女は唇を噛み、目を逸らした。

「……昔……通った……」

年齢に合わない、冷たい言葉。

レオンは一瞬、剣の柄に指を強く絡めたが、今は追及できない。

「行く。遅れれば、御者は死ぬ。」

レオンは馬を外し、馬車を押す。雨が背中を叩き、冷たい泥が足首まで絡みつく。

「待ってください! あなたまで……!」

少女が必死に止めようとする。

「黙れ。護衛の役目だ。」

冷たく切り捨てると、少女は唇を震わせ、深く頭を下げた。その仕草は完璧すぎて、王族の教育を思わせた。

馬車が動き出す。車輪が泥を跳ね、軋む音が不気味に響く。

森の影が、息を潜めてこちらを狙っている――確信があった。

「……あの……」

少女の声が、雨を割って届いた。震えている。

「先ほど……一瞬の迷いもなく、あの人たちの喉を……」

「……」

「怖く……なかったのですか?」

レオンは前を向き、答えない。

「……怖くない騎士は、死体だ。」

掠れた声で、ようやく。

「恐怖に負ければ、守るものは確実に死ぬ。」

少女は息を呑み、言葉を失った。

「……あなたは……大切な人を、守れなかった……」

鋭く、核心を突く一言。

レオンは馬車を押す手を一瞬強く握り、泥に足を取られそうになった。

答えなかった。それが、すべてを語っていた。

霧の奥に、石祠の影が浮かぶまで、死のような沈黙が続いた。

石祠の夜

祠の中は湿気と死の匂いが満ちていた。

御者を横たえ、少女は素早く手当てを始める。血に染まった手が、一切震えない。

「……お前、血を見慣れているな。」

レオンの声に、明らかな疑念が乗る。

少女の指が、わずかに止まった。

「……見慣れるしか……なかったのです。」

冷たい返事。

「令嬢が、こんな手際で傷を縫えるのは異常だ。」

少女は息を吐き、焚き火に顔を近づけた。火光が、瞳に暗い影を落とす。

「立場は……人を強くも、残酷にもする。」

その言葉に、明確な棘があった。

レオンがさらに切り込もうとした瞬間、少女が先手を打った。

「エリス……と呼んでください。」

「……“今は”、か?」

少女――エリスは、目を伏せたまま頷いた。

「ええ……今は。」

隠しているものの重さが、空気を凍らせた。

焚き火が赤く揺れる夜。

雨が屋根を叩き、風が祠の隙間を唸らせる。外の森で、何かが動いた気がした。

「……なぜ、私を護衛したのですか?」

エリスの問いが、静かに落ちる。だが、声の奥に切迫したものが潜む。

「……命令されたからだ。」

「誰に?」

レオンは薪を強く折り、火花が激しく散った。

「……死んだ人に。」

エリスは唇を強く噛み、火を見つめた。

「……その人は……あなたに、生きて戦えと命じた……」

あまりにも鋭い洞察。

レオンの胸が、焼けるように痛んだ。

「……レオン様。」

突然の呼びかけに、レオンは剣の柄に手を置いた。

「なぜ、俺の名を知っている?」

エリスは一瞬、息を止めた。

「……御者が……昏睡の合間に……呟いて……」

嘘だ。

レオンは即座に確信した。少女は最初からすべてを知っていた。

だが――追及しなかった。今は、生き延びることが先だ。

「目的地を言え。」

「……アストリア王国。」

その瞬間、レオンの背筋に氷のようなものが走った。

国境は今、戦争寸前だ。王女誘拐未遂の噂が絶えない。

「……お前、まさか……」

エリスは静かに、しかし決定的に頷いた。

「……承知の上で、来ました。」

火の向こうで、少女の瞳が燃えていた。

その奥に潜む、死を覚悟した光を――レオンは初めて真正面から見た。

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