欲しいのは墓に供える花なんかじゃない


南東に位置する“美しの森”は、その名を冠する通りに緑豊かで華やかな地域である。

春は様々な草木は勿論、薬草になるものも白や黄色の小さな花をつける。

突付けば風で飛んでいく小さなそれは目に入っても痛くない程細やかで可愛らしいし、青藍累葉アオアイルイハはとても強い植物で名前の通り蔓は青く、雫型の葉は夜の始まりのような藍色で、蔓を切ってじっくり観察してみると、ほんのり酒のような刺激臭をさせながら金色の水分を惜しみながらも零すのだ。

その金色の水から生まれたかのように、夏には黄金花耀オウゴンカヨウが並び立ち、夜風に擽られてクスクス草が笑う。

秋の森は芳香で満たされる。

ワレアタマなんていう物騒な植物があるが、中の小さな果肉は頬の内側が記憶してしまいそうなほど心地良く甘酸っぱい。

黄色から橙に、それから赤へと変色していく薔薇が咲き、これがなんとも可愛らしいことに恋人という渾名をしている。鈴転子スズコロガシが鳴くと同時に夕暮れになると、負けじと同じ色の光を打ち返す植物達のなんと力強いことか。

冬はそれなりに冷えるものの、雪の中でだけ花を咲かせる植物も幾つか見ることができる。

棘のような葉を持つアカツキバミが雪の下でだけ見せるルビーのような辛い実。雪がこんもり膨らんでいれば、中にはシクシクという薄紫の大きな花が隠れている。

地上ではじめて迎えた季節のすべてはチャバネゴキブリの混合魔族ーー人虫じんちゅうであるシノワズリにとって、この世の美しさそのものだった。


「にいさん、かなしいわ」

自分がそう言って、とくとくと涙を落としたことをシノワズリは今でも覚えている。

春夏秋冬すべての季節をその目で見て、肌で感じ、匂いを覚え、土を踏み。そうしてその身に溜め込んだ、この世の限りある自然が巡り繋ぐ色彩を、言葉にも音楽にも頼らずに噛み締める。

その至福の実感と共に、どうしようもなくたまらなくなったのだ。

同族のいない場所、土の中の小さな家で母とひっそりと暮らした幼い頃、外の世界は望遠鏡の先だった。星と同じだった。

だけどつらくはなかったのだ、必ず出られると分かっていたから。だけどつらくはなかったのだ、母を置いては行けないのだから。

「どうして」

どうして此処に、地上に、本当のこの世界に母を連れて来ることは叶わなかったのか。

「どうして」

どうしてこの世界を歩くことがこんなにもつらいことなのだろうか。母を、一族を、生まれ故郷すら冷たい土の中に閉じ込めたままーー

「どうして私だけ」

ーーどうして許されてしまったのか。

どうして私だけを送り出したのか。

どうして一族みんなで、これを見ることができなかったのか。

悲しくて申し訳なくて、だけど見るもの触れるものすべてが嬉しくて嬉しくて、それが本当に申し訳なくて、シノワズリは只管とくとくと泣いて雪を濡らした。それが遠い、最早何処にあるのかも知らない土の中の、見ることもなく育った故郷に届くことがないことも承知の上で泣き続けた。

「こんなに綺麗なものが沢山あるのに、地上だけなんてひどいわ」

「どうして教えてくれないの、にいさん。

どうして私はこれを持って帰れないの。

どうしてみんなに見せてやれないの」

シノワズリはそう言って雪の中に両腕を突っ込んで抱えられるだけいっぱい包んで、顔を埋めてまた泣いた。

シノワズリが生まれた頃には既に母は生まれ故郷を一人離れていた。自分が如何に祝福されて生まれてきたのかを誕生日が来る度に母は丁寧に説いたものだ。

“行くことも帰ることもできなくとも、お前の誇りはそこにあるのよ。お前の生まれた意味がそこにあるのよ。だからいつも想いなさい。心に一族を想いなさい。彼等のために世界を見、彼等のために力を振るい、彼等のためにしゃんと立ちなさい”と。

母が死に、母と約束していたのだと言ってシノワズリを迎えに来たのが片喰かたばみという、同じく人虫であるオニヤンマの少年で、手を引いて地上に連れて行ってくれた。

そうしてシノワズリの兄になった片喰はこどもの頃から強くて優しくて、どんな時でも味方になってくれた。

そして何よりも熱心に自分に技術を教えてくれた。

片喰が決して教えてくれなかったものは、母と暮らした土の中の小さな家と、まだ生き残っている一族がいるであろう故郷が何処にあるかということだけ。

それだけは、何度頼んでも教えてはくれなかった。


母に恥じないよう、兄に並べるよう、シノワズリは強くあろうと心から願い、目指してきた。本でしか知らなかったすべてを全身で味わいながら、学業を熟して鍛錬に励んだ。

そうして迎えた地上で過ごした一年目の終わりに、とうとうはじめて泣いてしまったのだ。

泣くなと教えた母とは違い、片喰はシノワズリを叱らなかった。

「もっと泣いて、もっといっぱい見ろ。

もっといっぱい食って、もっと色んなところへ行って、もっともっと色んなことをするんだ。

今からそんなに泣いててどうする」

そう言ってシノワズリの頭を撫でただけだった。

シノワズリは益々泣いた。泣いて泣いて、雪を叩いて果ては放り投げて、シノワズリは鼻も指先も真っ赤になって全身が濡れてしまうまでそれを続けた。

とんでもなく幸せで、とんでもない罪悪感で腹の内から身が溶けてしまいそうだった。

いっそのこと、一族の人虫達が叫び、食い破ろうとする痛みであって欲しかったーーどうしてお前だけと。

はじめて見た花は押し花にもしたし、はじめて湖に足を着けた日は水晶玉に映して記憶に残した。月の満ち欠けもすべて観察して自動書記録に日記を付けて、手描きのスケッチだってした。道具や術式を使えば雪だって残しておく手段はあるだろう。

だけど今そのすべてが自分勝手で浅はかな“ままごと”に思えて、でも何よりも感謝するべき恩恵であることも知っていて。

誰にも言わずともそれらのすべての記憶はいつか誰かに見せるためだった。

ちっぽけで独り善がりな祈りのためだった。

でもそんなものでは足りない、そんなもの何の役にも立ちはしない。今目の前にあればすべてかなぐり捨てていただろう。

自分のすべての魔力を使い切ってでも、この地上の景色を両手に抱えて、土の中へ帰りたかった。

母と過ごし、母の弔い場所でもある土の中の小さな家を一度だけ振り返ってから後にした日よりも、遥かに強く胸を焼き尽くす、最早憧憬の色すら含んでだ渇望だった。

「かえりたい、かえりたい」と半ば叫んでいることに気付いたのは、喉が熱くなってとうとう咳を溢した時で、数回の咳をしてから漸く、鼻を啜りながらも落ち着くことができた。

何も言わずに片喰を見上げると、片喰は隣にしゃがみ込んでいつも通りに笑いかけてくれた。

だがすぐにその短い眉を垂らして呟いたのは一言。

「ごめんな」

職人が何度も削って輝きを放つように形を整えた宝石のような複眼がまっすぐにシノワズリを捉えていた。綺麗だった。

折角泣き止んだというのにシノワズリはみるみる両眼を温い涙に浸して、今度こそは思い切り喉を引き裂く叫びを放った。


御器囓ゴキカブリ蜻蛉トンボの人虫の話】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る