第二話 教会の落とし子
検体保管室は、研究所の一番奥まった場所に設置されています。
儀式室とは違い、ここには派手な術式陣はありません。簡素な清浄結界と、腐敗を遅らせるための低温術式が、淡く床と壁に刻まれているだけです。
中央の寝台には、一人の男が横たわっていました。
「身元は?」
「はい。リメール領北西部、グラナ村の農夫だそうです。村外れで倒れているのを、通りがかった巡回騎士が発見したと……」
補助員が震える声で報告する。
見たところ、年齢は三十代前半。訓練された兵士ではなく、田畑で鍛えられた肉体という印象。
外傷は、確かに少ない。
衣服を外した上半身には、目立った切り傷も打撲痕も見当たりません。
ただ、一箇所を除いては。
「胸部の刻印……なるほど。確かに、聖痕と酷似していますね」
男の胸骨付近に刻まれた紋様を見下ろしながら、私は小さく息を吐きました。
円と線を組み合わせたような図形。その中心には、微細な魔力の焼き跡のようなものが残っている。
原型となった聖痕の術式構造を知っている者からすれば、一目で理解できます。
「粗悪な模倣品ですね」
「も、模倣品……ですか?」
「はい。術式の骨格そのものは、こちらの聖痕と同系統。ですが、いくつか致命的な欠損があります」
私は胸部の刻印に指をかざし、残滓として残った魔力の流れをなぞるように探っていきます。
霊核への接続ルートが甘い。
負荷分散用の補助回路が、一部ごっそり欠落している。
精神領域への干渉式も、妙に雑だ。
「これでは、霊核が長く持ちません。短期間なら強制的に出力を引き上げられるでしょうが、その後に待っているのは、破損か自我崩壊。もしくは、その両方です」
それに――生命活動が途絶えたあとも、霊核の残滓をこの肉体に縫いとめようとした痕がうっすらと残っています。
死にかけた魂と身体を、無理やり繋ぎ止めるタイプの術式。死霊系統の魔術でよく見られるパターンですね。
男の顔に目を移す。
目は大きく見開かれたまま、焦点を結んでいない。
恐怖とも苦痛ともつかない表情が、その瞬間の凍結として貼り付いている。
「死因は?」
「一応の解剖結果では、心停止とされていますが……霊核の方は、既に完全な沈黙状態です。反応はほとんど……」
「そうですか」
私は短く相槌を打ち、刻印の周囲に浮かぶ細かな痕跡をもう一度確かめました。
術式の組み方。
魔力の流し方。
霊核に干渉した痕の深さ。
――見覚えが、ありますね。
「レオネルさん」
「なんだい?」
「この術式、初期段階の聖痕研究で使用されていた術式構造と、きわめて近しいものです。補助回路の配置が、今の型ではなく、廃棄されたセカンドプランに酷似しています」
「セカンドプラン……? それって、例の『被験者の負荷が高すぎる』と判断されて、早期に打ち切られた――」
「はい。間違いないかと」
レオネルさんの顔から、さっと血の気が引いていく。
私が目を通した過去の資料。
最初期の聖痕研究において、「諸事情により追跡不能」と記されていた、いくつかの事例。
あのあたりに使われていた術式だとすれば――ここに刻まれた紋様の出所も、おおよその見当がつきます。
「街の噂や、教会への報告では、どう扱われているのですか?」
「一応は、魔物か賊の仕業ということになっています。ただ、前後で行方不明者や不審な巡礼集団の目撃情報もあり……現場の神官たちは、何らかの邪教団による集団洗礼の失敗ではないかと」
「邪教団、ですか」
それは、ずいぶんと便利な言葉です。
原因が分からないとき。
認めたくないとき。
自分たちの責任から目を逸らしたいとき。
世の中のあらゆる異常は、まとめてそういう類の言葉で一纏めにされる。
――彼が、そうだったように。
ですが、今回ばかりは。
「邪教団というラベルも、あながち間違いではなさそうですね」
私は呟き、検体から一歩下がりました。
教会から漏れた術式か。
あるいは、過去に深淵を覗き込み、生還してしまった何者かが、自分の聖痕でも再現しようとしたのでしょうか。
どちらにせよ、放置すべきではない案件ですね。
「レオネルさん。この検体に関する情報と、該当する研究資料を一式、まとめていただけますか?」
「司祭様のところに?」
「はい。直接お見せした方が早いでしょうから」
レオネルさんは、真剣な表情で頷いた。
「分かった。すぐに準備するよ」
「ありがとうございます」
私はもう一度だけ、検体の顔を見下ろしました。
知らない男です。
私にとっては、興味深いデータをくれた検体の一つに過ぎません。
もしも、ここに彼が居たのならば、どう思ったのでしょうか。
何だかんだ、優しい人ですから、いい顔はしませんね。
――想像することはできますが、以前ほどは何も揺れません。
やれやれ。
感情の抑制は、本当に着実に進行しているようですね。
それに、未練がましいにも程がある。
まったく、滑稽ですね。
◇ ◇ ◇
「……なるほど。やはり、そういうことでしたか」
最高司祭の執務室で、資料を一通り読み終えたジークレイン様は、静かに息を吐きました。
机の上には、先ほどまで保管室で見ていた男の胸部を写したスケッチと、簡易的な術式解析のメモ。それから、初期聖痕研究の一部抜粋。
「こちらから説明する前に、察しておられた様子ですね」
「ええ。その可能性は、ずっと頭の片隅に置いていましたよ。見たくない現実として、ね」
司祭は目元に皺を刻みながらも、どこか諦念にも似た微笑みを浮かべていました。
「初期の聖痕研究に携わっていた者たちの中に、『諸事情により追跡不能』となった被験者と研究員が数名いたことは、白夢さんもご存じでしょう」
「はい。一度、資料を拝見させて頂いたことがあります」
「あのとき処分されたはずの男の中に、深淵の縁から、戻ってきてしまった者がいた」
ジークレイン様の声が、僅かに低くなります。
「肉体を焼き切られ、自我を削られ、それでもなお、『世界と融け合った』という実感だけを胸に、こちら側に生還してしまった者が」
それは、先ほど私が検体を見ながら組み立てた仮説と、ほぼ一致していました。
処分されたはずの被験者。
霊核と聖痕が、深く融合してしまった者。
死という境界線を一度越えたがゆえに、「救済」の形を歪んだまま固定してしまった人間。
「彼が、死霊魔術と、未完成の聖痕を使って、自分と同じ『救い』を他者にも施そうとしている。そう考えるのが自然でしょう」
「つまり、今回の件は――」
「我々、聖始天教会の落とし子ですよ」
司祭は自嘲気味に笑い、額に手を当てました。
「名目上は邪教団であっても、その原型を作ったのは、紛れもなく我々だ。だからこそ、外部には軽々しく明かせない」
「……そうですね」
私は同意を示しながらも、心の中では別のことを考えていました。
教会の不始末。
未完成の聖痕。
深淵を覗いた元被験者。
そして、それを放置した場合に起こりうる、最悪の展開。
「ジークレイン様」
「はい?」
「この深淵教団――と、仮に呼称するとして。彼らの殲滅および、術式資料の回収と解析を、私に担当させていただけますか」
司祭の瞳が、わずかに見開かれました。
「……自ら、ですか」
「ええ」
私は視線を逸らさずに答えます。
「これは、教会としても放置できない案件であると同時に、聖痕研究にとっても、非常に貴重なサンプルです。未完成な聖痕と、それを用いた死霊魔術。放置しておくには、惜しすぎます」
「『惜しすぎる』、ですか」
言葉の選び方が気に入ったのか、司祭は小さく笑いました。
「動機としては、研究と責任、両方というところですか」
「否定はしません」
私は素直に頷きました。
「教会の落とし子である以上、その後始末は、教会の手で行うべきでしょう。それに――」
一拍置いて、続けます。
「仮に彼らが、深淵の向こう側を覗いた人間の成れの果てだとするならば。将来的に、私の研究とも無関係ではなくなりますから」
私の言葉に、司祭はしばし沈黙しました。
じっと、こちらを見つめてくる。
聖痕保持者としての適性。
研究者としての欲。
そして、教会からの離反の可能性。
それらを、ひとつひとつ、天秤に乗せて測っているような眼差しでした。
「……裏切りは、しませんか」
ようやく絞り出された言葉は、驚くほど率直なものでした。
「少なくとも、今は」
私は少しだけ口元を緩めて答えました。
「ここは、世界の仕組みに最も近づける場所のひとつです。わざわざ、自分から遠ざかる理由がありません」
「今は、ですか」
「未来の私のことまで、保証してしまうのは、少し傲慢が過ぎると思いまして」
司祭は、ふっと吹き出しました。
「本当に、あなたは正直だ」
「嘘をついても、いずれバレて面倒になるだけですから」
「全くその通りですね」
彼はしばらく笑ったあと、表情を引き締めました。
「分かりました。深淵教団の件、あなたに一任しましょう。表向きには、教会の調査隊に随行する形になりますが、実質的な指揮権はあなたに預けます」
「ありがとうございます」
「ただし、ひとつだけ」
司祭の視線が、わずかに鋭くなります。
「彼らを、『同類』として見ないことです。深淵を覗いたからといって、すべてがあなたと同じ道を歩んでいるわけではない。その違いを取り違えれば、足元をすくわれますよ」
「肝に銘じておきます」
本心です。
彼らは興味深いサンプルではありますが、私と同じではない。
その線引きを曖昧にした瞬間、きっと私は、研究者ではなくなってしまうのでしょう。
「では、準備が整い次第、詳しい情報を伝えます。それまでは、通常業務を続けてください」
「かしこまりました」
深く一礼し、私は司祭の執務室を後にしました。
聖痕研究。
深淵教団。
教会の落とし子。
思っていたよりも早い段階で、チャンスが巡ってきましたね。
――さて。どこまで踏み込み、どこで引き返すべきか。
その判断を誤った者たちの末路を、まずはこの目で確かめに行くとしましょうか。
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