第三話 毒入りの契約

「どうぞ」

「失礼します」


 重厚な扉を押し開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でました。


 中は、礼拝堂のような豪奢さとは無縁でしたが、それでも「この場所の持ち主」を雄弁に物語るだけの重みをまとっています。必要最低限の調度品と、壁一面の書棚。そして、部屋の奥には、簡素な椅子に腰かけた初老の男性が一人。


 聖始天教会の最高司祭、ジークレイン・ベテルギウス。


 私に聖痕の存在を示し、そのリスクを説明し、それでも「受けるか」と問いかけた張本人。


「ようこそ、白夢そらさん。体調はどうですか」


 穏やかな声が、部屋の静けさを柔らかく揺らしました。

 まるで、長く会っていなかった孫か、古い友人でも迎えるような声音。非人道的な研究をしている組織の頂点にいる人間の声とは、とても思えませんね。


「おかげさまで。頭痛や吐き気、手足の痺れなどもありません。むしろ、以前より全体的な調子は良いくらいですね」


「それは結構。三日も眠り続けておられたから、少々心配していましたよ」


 そう言って、司祭は目を細めました。

 慈愛に満ちた微笑み。どうやら本心ではあるようですね。

 ですが、その瞳の奥には、もっと別の色が沈んでいるのが見えます。


 好奇心。

 欲望。

 そして、確信。


 自分の選択は間違っていない、と信じて疑わない人間の目。


「その節は、ご心配をおかけし申し訳ございません。今回の儀式に関する研究資料と、過去の研究成果にも道中で目を通させていただきました。早速ですが、聖痕の術式資料を頂きたいのですが」


「はは。目覚めたばかりだというのに、まずは研究の話ですか」


「私の身に起きた変化ですから。自分のことくらい、自分で把握しておきたいのです」


 私の答えに、司祭は楽しそうに喉の奥で笑いました。


「……やはり、あなたを招いたのは正解だったようです」


 彼はゆっくりと立ち上がり、机の前まで歩いてくると、片手で「こちらへ」と促した。

 距離を詰めてみても、やはり、最初に感じた印象は変わりません。


 優しそうで、穏やかで、それでいて底が見えない。


「聖痕の刻印を受けてなお、恐怖も後悔もないように見える。違いますか」

「恐怖はありますよ」


 即答すれば、司祭の眉がわずかに動きました。


「未知が未知のままでいる現状は、正直恐怖でしかありませんから」


「なるほど。では、後悔をされているのですか?」


「ふふっ……いいえ」


 今度は、少しだけ間を置いてから答える。


「ここで立ち止まる方が、よほど怖いと感じていますので」


 司祭の目が、愉快そうに細められました。


「なるほど。よろしければ、その理由を聞いても?」


「単純な話です。私は、世界の仕組みを知りたい。魂や霊核、深淵やダアト。そういったものの正体に、もっと近づきたい。そう考えたときに、ここ以外に最適な環境が思い当たりませんでした」


 それは半分、本音であり。

 半分は、この男が聞きたいであろう答えを、少しだけ意識した言葉でした。


「私利私欲のために、教会の力を使いたいと」


「ええ。もちろん、教会にとっても利益になる形で」


 司祭は、楽しそうに口元を押さえました。


「あなたのような人は、実に扱いやすい。欲望を隠そうとしない分、話が早い」


「隠しても、いずれ露見します。なら、最初から開示しておいた方が、後々のすり合わせが楽だと思いますが?」


「全くもってその通りですね」


 そこで一度、司祭は真顔に戻りました。


「では、話を少し整理しましょう。白夢そらさん。あなたは、教会の庇護のもと、この地下研究所で聖痕の研究を続けることができる。必要な術式資料、過去の被験者のデータ、設備、人員。そのすべてを、可能な範囲で提供しましょう」


 そこまで言って、司祭は言葉を区切る。


「その代わり、あなたにはいくつか、守っていただきたい条件があります」

「条件、ですか」


「ええ。一つ。研究成果は、最終的に教会に帰属すること。二つ。あなた自身が聖痕保持者として、ある程度、戦力として動いてもらう可能性があること。三つ。研究の過程で知った教会の機密について、外部に漏らさないこと」


 まあ、妥当な条件でしょうね。

 むしろ、これくらいで済むのであれば、安いものです。


「問題ありません。ただ、こちらからもいくつかお願いがあります」


 司祭の目が、楽しげに細められる。


「どうぞ」


「まず一つ。聖痕に関する情報は、可能な限り、私にも共有してください。成功例だけでなく、失敗例も含めてです」


「それは構いません。むしろ、あなたの視点で再解釈してもらえると助かる」


「二つ。研究対象として、私自身の判断に反する実験を強制されることのないよう、約束していただきたい」


 司祭は少しだけ首を傾げました。


「例えば?」


「私が不要と判断した拷問や、無意味な生体実験などですね。結果が見えている殺戮は、研究としても信仰としても無駄です」


「……なるほど。噂通り、あなたは効率を重視するタイプの人間でしたか」


「ご存じなのでしたら、話が早いですね。私は非効率な虐殺は好みません」


 その言い方が気に入ったのか、司祭は小さく笑いました。


「分かりました。あなたが『無駄だ』と判断した遊びには、付き合わせないようにしましょう」


「ありがとうございます」


「他には」


「三つ目は、今すぐの話ではありませんが――私にとっては、いちばん重要です」


 一拍置いて、私は司祭の目を真っ直ぐに見ました。


「聖痕の完成形に至ったとき、その術式の構造と意味について、私自身の言葉で結論を出す権利が欲しい」


 司祭の瞳の色が、ほんのわずかに揺れました。


「あなたの問いに対する答えと、私の問いに対する答えは、必ずしも一致しないかもしれません。ですが、私の方の答えを握りつぶされるのは、少し困りますので」


 沈黙が落ちる。


 数秒の静寂ののち、司祭はふっと息を吐きました。


「まったく。あなたは本当に、面白い」


 苦笑に近い笑みを浮かべながら、彼は頷いた。


「いいでしょう。聖痕が完成に近づいたとき、あなた自身の結論を聞かせてください。それが、私の望むものと違っていたとしてもね」


「約束ですよ」


「はい。約束です」


 そうして、私と教会の契約は、ひとまず形になりました。


 ……あとは、この契約が、どちらにとって「より毒」になるのか。

 それを見極めるのが、これからの楽しみといったところでしょうか。

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