第2話 霧の向こうから

森の中を彷徨ってどれほどの時間が経ったのか、四人にはもう分からなかった。

重たい霧はますます濃くなり、空も時間も気配すらも、ここが現実であるという証拠を奪っていく。足元の土は湿っていて、踏みしめるたびにぬかるみがぬめり、靴が吸い寄せられるように沈む。


「……これ、夢じゃねぇよな……」


翔太の声は弱々しい。普段は場を盛り上げる陽気な彼も、今はその面影すらない。


「仮に夢でも、これは正気の夢じゃない。明らかに現実だ」


慎一は理屈を頼りに自分を保とうとしていた。だが、声に浮かぶ震えは隠しきれない。


「皆、落ち着け」


悠斗が冷静を装い、前を歩きながら振り返った。


「さっきの本……意味の分からない儀式の記録や、あの名を持たぬ存在の言葉……それとあの声……これは偶然じゃない。俺たちは、意図的にここに呼ばれてる」

「……でも、誰が? 何のために?」


真琴が立ち止まり、空を仰いだ。霧の奥に、歪んだ太陽のような淡い光が浮かんでいた。

そのときだった。


「……選択を拒む者に、道はない」


またしても、“あの声”が響いた。

声というには不自然すぎる。音として耳に入るのではなく、頭蓋の内側に直接流れ込んでくるような、冷たい囁き。

どこか懐かしいようでいて、感情を一切持たない機械的な響き。

翔太が叫ぶ。


「おい! いるなら出てこいよ! ふざけんなよ……!」

「止せ、刺激するな」


悠斗が声を低く制した。


「これは、挑発だ。たぶん俺たちの反応を見ている」


四人はその場に立ち尽くす。

森の奥で、不気味な金属音のようなものが微かに響く。風でも動物でもない。

明らかに“何か”がいる。何か、彼らを監視しているものがいる。


霧の中をさらに進んでいくと、朽ちた建物の輪郭が浮かび上がってきた。


「……あれ、建物か?」


真琴が息を呑む。

それは古びた洋館だった。黒ずんだ石造りの外壁に、鉄の柵が絡みつくように設置されている。窓は割れ、蔦に覆われた屋根は半分崩れていた。まるで、この異界そのものの心を象徴するような、不気味で陰鬱な構造物だった。


「ここに入るのか?」


翔太が躊躇うように呟いた。


「進まなきゃ、何も分からないままだ」


慎一が小さく頷いた。


「もしかしたら、何か手がかりがあるかもしれない」


悠斗が扉に手をかけると、まるで待っていたかのように、それは軋んだ音を立てて開いた。中から吹き抜ける空気は冷たく、わずかに血と鉄の匂いを含んでいる。


館の中は暗く、時間が止まっているようだった。

壁には色褪せた肖像画。誰かの家族だろうか? だがその顔はみな、微かに笑っているのに、目だけが潰れていた。


「うわ……気味悪ぃ……」


翔太が肩をすくめる。


「……これは偶然じゃない」


真琴が絵画の額縁に触れながら言った。


「この館、何か意図を持って私たちに見せようとしてる……」


そのとき、慎一が埃をかぶった本棚から一冊の黒革の本を引き出した。

ページを開いた途端、視界が一瞬だけ“揺れた”。


「ッ……なんだ、これ……」


慎一が顔をしかめ、ページをめくる。

そこには異なる言語で書かれた文章が交差し、血のようなインクで何かが“封じられた”様子が描かれていた。

タイトルらしき文字は、擦り切れている。


「『■■■■ノ書』……?」


その瞬間、また声が響いた。


「扉の向こうに眠る者に、名などない。だが、名が与えられたとき、すべてが始まる」

「……おい、やっぱあの声、俺たちの行動に反応してる!」


翔太が怯える。

真琴が顔を青ざめさせながら言う。


「でも、ただ見てるだけじゃない……言葉が、誘導してる。『名が与えられたとき、すべてが始まる』って……」

「つまり、この本が“鍵”だってことか?」悠斗が問う。

「それとも……呪いか?」


その言葉に慎一が小さく頷いた。


「どちらにせよ、俺たちはこの館に来るべくして来た。ここは……観察される場所なんだ」


四人は本を携え、館の奥へと進んでいく。

壁には古代の象形文字、血痕のような模様、そして何よりも不在の存在を感じさせる空気が濃密に漂っていた。

廊下の奥で、“何か”が待っている。

だが、今はまだ見えない。

背後から、あの声がまた、囁いた。


「探索者たちよ。選択の時は迫る。扉は開かれた。進め。あるいは、戻るという選択肢を永遠に失うがいい」


悠斗は唇を引き結び、低く呟いた。


「……この声、確実に強くなってきてる」

「何者なんだよ、あれは……」


翔太が歯を食いしばる。

真琴は震える指先で黒革の本を撫でながら言った。


「分からない。でも……この世界の意志みたいなものが、私たちに語りかけてる。私たちは、この世界の一部に組み込まれてるんだよ……」


足元の床板がひとつ軋んだ。

音が、明確に「返事」をしたように思えた。

この館は生きている。

そして、その主は、確実に目を覚まし始めていた。

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