第3話 Side.Sumika

 隅田すみだ書店から歩いて五分ほどの場所にある居酒屋は、淑花すみかの行きつけだった。暖簾は年季が入っていて、店内も決して綺麗とは言えない。それでも騒がしすぎず、かといって静まり返ってもいない、会話をするにはちょうどいい温度の店だ。


 太玖也たくやは、連れられるままにその扉をくぐった。

 カウンター席に案内されると、彼は少しだけ周囲を見回す。初めて来る店の動作としては控えめで、警戒というほどではない。


「こういう店、嫌いじゃないのよ」


 淑花がそう言うと、太玖也は小さく頷いた。


「落ち着いてて、いいですね」


 やはり、という答えだった。騒音や視線が少ない場所を、彼は好む。ここに誘って正解だった。


 最初の一杯は、互いに無難なものを頼んだ。乾杯の音も小さく、グラスを合わせるというより、ただ近づけただけに近い。

 話題は、最初はどうでもいいことばかりだった。バイトの愚痴。書店の客層。最近増えた教科書の誤植。

 酒が進むにつれて、少しずつ、互いに話す内容がずれていく。


「太玖也くんって、大学入る時に一人暮らし始めたの?」


「ええ、進学のタイミングでです。実家は、ここから少し離れてて」


 家族構成。実家に帰る頻度。妹の話。

 今まで意識的に避けてきたわけではないが、自然と話題に出なかった部分が、酒の勢いで表に出てくる。


 淑花は、彼が妹の話をする時だけほんのわずかに声の調子を変えることに気づいた。優しくなるわけでも、熱を帯びるわけでもない。ただ、言葉を選ぶ速度が遅くなる。


「妹さんのこと、大事なんだね」


「……まあ」


 否定はしない。その曖昧さが、逆に重さを含んでいた。


 話題が大学の人間関係に移る頃、淑花はさりげなく探りを入れる。


「歓迎会、誰と行くことになってるの?」


「特に約束してるわけじゃないんですけど」


 少し間を置いて、付け足す。


鷹条たかじょうさんが、当日は近くにいてほしい、とは言ってました」


 その一言で、十分だった。

 淑花は表情を変えずに、グラスに口をつける。


 やはり、と思う。

 鷹条さんとかいう女は、彼を“選んでいる”。それが恋情かどうかは問題ではない。少なくとも、単なる偶然ではない。


「へえ、そうなんだ」


 軽く流す。嫉妬や警戒を見せる段階ではない。


 その後も話は続いたが、淑花の思考は別のところで回っていた。

 太玖也は自分に向けられている視線に鈍感ではない。気づいている。ただ、それを重要視していない。だからこそ、危うい。



 店を出た時には、時計は思っていたよりも進んでいた。夜風が火照った頬を冷ます。


「遅くなっちゃったね」


「ですね」


 駅までの道を並んで歩きながら、淑花は意識的に足取りを少しだけ乱した。


「……あれ」


 わざとらしくつまずくと、太玖也は反射的に手を伸ばしたが、すぐに距離を保つ。支える、というより、倒れないように壁を作っただけだ。


「大丈夫ですか?」


 声は落ち着いている。過剰な心配も、余計な触れ方もない。


 淑花は内心で、静かに頷いた。年頃の男子なら、もう少し違う反応をする。触れることに、意味を見出す。だけど、彼は違う。


「大丈夫。ちょっと酔ったふりだから」


 冗談めかして言うと、太玖也は困ったように笑った。


「……ほどほどにしてくださいよ?」


 それ以上、踏み込んでこない。この距離感は、信頼に値する。


 駅に着く直前、淑花はさりげなく自分のバッグを開け、鍵につけていた小さなチャームを外した。手の中で一瞬だけ重さを確かめてから、太玖也の鞄の外ポケットに滑り込ませる。


「じゃあ、今日はここで」


「はい。ありがとうございました」


 別れ際も、特別な言葉はない。


 家路につきながら、淑花は考える。

 歓迎会が終わったあと、彼がどんな顔をして戻ってくるのか。それ次第では、今後取らなければならない戦略も変わる。歓迎会の話を聞くための布石はもう打った。あの小さな私物が、再び彼とこうして会う理由になる。


 理解できない存在を理解しようとする。それは彼女にとって、もう癖のようなものだった。

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