第2話 Side.Sumika

 夕方の隅田すみだ書店は、いつもより少しだけ静かだった。新学期が始まったばかりの時期は、教科書の動きが落ち着くまで売り場に妙な空白ができる。苑堂えんどう淑花すみかはレジ横の在庫表に視線を落としながら、その空白よりも、カウンターの向こうに立つ朝桐あさぎり太玖也たくやの様子が気になっていた。


 彼は元々感情が表に出るタイプではない。無愛想というほどでもないが、淡々としていて、忙しさや疲れを顔に出さない。それでも今日は、わずかに動きが鈍い。釣り銭を渡す手が一拍遅れ、客がいない時間には、考え事をするように視線が宙を彷徨っている。


 ――何かあった。

 そう判断するのに、淑花は迷わなかった。


 閉店準備に入る少し前、レジ締めの合間を見て、彼女は自然な調子で声をかけた。


「太玖也くん、今日なんだか元気ないね」


 太玖也は一瞬だけこちらを見て、それから否定も肯定もせずに息を吐いた。


「……そんなにわかりやすいですかね?」


「まあ、わかる人には」


 淑花は笑いもせず、淡々と返す。過剰に気遣うと、彼は引く。これは経験則だった。


「何かあったなら、聞くよ?」


 しばらくの沈黙のあと、太玖也は観念したように口を開いた。


「大学の、新入生歓迎会に参加することになって」


 それだけで、淑花は大体の事情を察した。

 彼は酒が得意ではない。飲めないわけではないが、好んで飲むタイプでもないし、集団で騒ぐ場を避ける傾向がある。


「お酒?」


 あえて核心を外した問いを投げる。本当の理由がそれだけではないことは、最初からわかっていたが。


 案の定、太玖也は首を振った。


「酒自体は、まあ……。それもありますけど、みんなでワイワイ、って空気が苦手で。しかも……」


 言い淀む。その一瞬の躊躇を、淑花は見逃さない。


「しかも?」


「……鷹条たかじょうさんっていう、一軍女子みたいな人に、目を付けられてて」


 その話が出た瞬間、淑花の思考は一段階深く沈んだ。


「断れなかった、って感じ?」


「断ったら、後々面倒になるかもしれないって思って」


 仲間外れ。空気。立場。

 彼がそういう圧力を正確に理解していることに、淑花は内心で小さく評価を更新する。鈍感ではない。ただ、抵抗する気が薄い。


「なるほど」


 淑花はそれ以上、掘り下げなかった。理由を聞き出すのが目的ではない。状況を把握できれば充分だ。


「じゃあさ」


 在庫表を閉じながら、ふと顔を上げる。


「みんなでワイワイじゃなければ、いいんだよね?」


 太玖也は少し意外そうな顔をした。


「……どういう意味ですか」


「今日、バイト終わりに少しだけ飲まないかな、って」


 誘いは軽い。だが、曖昧さはない。


「晩酌っていうほどでもいいし。二人きりで、少しだけ。どう?」


 彼女は自分が何をしているか、正確に理解していた。

 これは慰めでも、同情でもない。比較対象を用意するための行為だ。大人数の場と、静かな二人の時間。その差を、彼自身に認識させる。


 太玖也はすぐには答えなかった。考えている、というより、警戒している様子だった。


「……それって」


「ああ、嫌ならいいの。無理に誘ってるわけじゃないし」


 逃げ道を用意する。これは淑花の癖だった。選択肢を与えない関係は、必ず歪む。

 しかし数秒の沈黙のあと、太玖也は小さく頷いた。


「じゃあ……少しだけなら」


「うん。少しだけ」


 それで充分だった。


 淑花は彼が歓迎会を憂鬱に思っている本当の理由を、まだ完全には掴んでいない。ただ、“鷹条さん”という名前が、彼の中で単なる同級生以上の“ノイズ”になっていることはわかった。


 理解できないものほど、距離を測りたくなる。それは彼女自身の性質でもあった。


 レジの灯りを落としながら、淑花は思う。

 これは踏み込みではない。観測だ。それでも、この一杯が、後に引き返せない差になる可能性があることを、彼女は計算に入れていなかったわけではなかった。

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