第二話 包囲される日常
翌朝の教室は、いつも通りの喧騒に包まれていた。だが、俺、高城律の目には、その風景が昨日までとは全く違った色を帯びて映っていた。無邪気な笑い声も、他愛のない会話も、すべてが薄っぺらな書き割りのように感じられる。
俺は自分の席に座り、教科書を開きながらも、耳と神経を研ぎ澄ませていた。
昨夜、俺は一つの「仕掛け」を施した。それは、物理的な罠ではなく、人間の心理を巧みに利用した、空気の檻を作るための仕掛けだ。
「おはよう、会長。早いですね」
声をかけてきたのは、生徒会会計の一ノ瀬陽菜だ。彼女は俺の斜め後ろの席で、クラスは違うが、朝のホームルーム前によくこうして顔を出しに来る。
「おはよう、一ノ瀬。頼んでいた件、どうだ?」
「はい。昨日のうちに、進路指導室の掃除当番だった1年生たちと、部活のネットワークを使って『種』は蒔いておきました。この学校の生徒なら、一番敏感な話題ですから……広まるのは早いと思います」
一ノ瀬は小声で報告すると、意味深な視線を周囲に向けた。
俺が彼女に流させた噂。それは、「最近、大学の推薦入試や指定校推薦の選考基準において、素行不良者との交友関係がマイナス査定に含まれるようになったらしい」というものだ。
もちろん、これは完全な嘘ではない。実際に生活態度は評価の一部だ。だが、「不良と関わるだけで連帯責任を取らされる」というのは、進学校の生徒たちの恐怖心を煽るための誇張だ。偏差値至上主義で、内申点に敏感なこの学校の生徒たちにとって、自分の将来に傷がつくことほど恐ろしいものはない。
「ありがとう。さすがだな」
「いえ……でも、本当にこれでいいんですか? 西園寺先輩、クラスで孤立してしまいますよ」
一ノ瀬の瞳には、まだ迷いが見える。彼女は優しい。だからこそ、俺がやろうとしていることの残酷さを理解しているのだ。
「彼女が選んだ道だ。俺はただ、リスク管理の重要性を生徒たちに再認識させているに過ぎない」
「……分かりました。会長がそう言うなら、私は従います」
一ノ瀬は深く頷き、自分の教室へと戻っていった。彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は冷徹な計算を巡らせる。これで、美咲の周囲に「見えない壁」ができるはずだ。
その時、教室のドアが開き、聞き慣れた、しかし今は吐き気を催す声が響いた。
「おはよー! あー、今日もお腹痛いかも……」
西園寺美咲だ。
数日ぶりに登校してきた彼女は、少し顔色を白く塗っているように見えたが、その足取りは軽い。演技だということは、昨日のあの光景を見ている俺には明白だった。
「あ、律くん! おはよう!」
美咲は俺を見つけると、駆け寄ってきた。その笑顔には、一点の曇りもない。まるで、昨日黒田とあんなことをしていた記憶など消去したかのように、無邪気な「彼女」の顔をしている。
「おはよう、美咲。体調はもういいのか?」
「うん、まだちょっと微熱あるけど、律くんに会いたくて頑張って来ちゃった」
美咲は上目遣いで俺の袖を掴んだ。その指先が俺の肌に触れた瞬間、昨日の映像がフラッシュバックする。黒田の身体をまさぐっていた手。汚らわしい。本能的に振り払いそうになるのを、俺は理性で必死に抑え込んだ。
「そうか。無理はするなよ。……少し、煙草臭いな。バスで誰かの近くにいたのか?」
「えっ!?」
美咲の身体がビクリと跳ねた。瞳孔が一瞬開き、動揺が走る。
「あ、う、うん! そうなの! 今日のバス、混んでてさー。変なおじさんが近くにいて、嫌だなぁって思ってたんだ」
「災難だったな。次は気をつけたほうがいい」
嘘だ。彼女からは、黒田が愛用している安っぽいメンソール煙草の残り香と、それを隠そうとして振りかけた香水の匂いが混ざり合った、独特の不快な臭いが漂っていた。バスのおじさんごときでつく臭いではない。登校直前まで黒田と会っていた証拠だ。
「う、うん……。あ、私、席に戻るね! 予習しなきゃ!」
美咲は逃げるように自分の席へと向かった。その背中を見ながら、俺は心の中で冷ややかに笑った。焦るがいい。お前の嘘など、すべてお見通しだ。
ホームルームが終わり、一限目の授業が始まる前の休み時間。俺の仕掛けた「噂」の効果が、早くも現れ始めていた。
いつもなら、美咲の周りには数人の女子生徒が集まり、昨日のドラマの話や放課後の予定で盛り上がっているはずだ。彼女はクラスの中でもカースト上位に位置し、その中心人物の一人だった。
だが今日は違った。
美咲が教科書を出そうとして筆箱を落とした時だ。
「あ、落ちちゃった。……ねえ、由美、拾ってくれない?」
美咲が、近くの席の友人に声をかけた。しかし、由美と呼ばれた女子生徒は、まるで聞こえなかったかのように、急いで次の授業の準備を始めた。
「……由美?」
「あ、ごめん美咲。私、移動教室の準備急がないと。じゃあね」
由美は不自然な早口でそう言うと、他の友人を連れてそそくさと教室を出て行ってしまった。
残された美咲は、ぽかんと口を開けてその背中を見送るしかなかった。
「え……なに、今の」
美咲の呟きが聞こえた。彼女はまだ気づいていない。なぜ自分が避けられたのか。
当然だ。由美は成績優秀で、指定校推薦を狙っている。そんな彼女の耳に、「黒田一派と関わっている人間は内申が下がる」という噂が入ればどうなるか。リスクを冒してまで美咲と仲良くする義理はない。
美咲は、自分が「黒田の女」になり下がっていることが、周囲にバレていないと思っている。だが、人の口に戸は立てられない。俺が流した噂に加え、昨日の放課後、特別教室棟から出てくる二人を目撃した生徒が他にもいたのかもしれない。
進学校の生徒たちは、異分子に対する嗅覚が鋭い。美咲が纏う「堕落した空気」を、本能的に察知し、排除にかかっているのだ。
昼休み。
俺はあえて教室に残り、美咲の動向を観察していた。
彼女は弁当箱を持って、いつものグループの席へ向かおうとした。しかし、彼女たちが机を寄せて固まっている輪の中に、美咲が入る隙間はなかった。
「あ、みんな、ここいい?」
「……ごめん美咲、今日ちょっと、込み入った話してるから」
「え? でも、いつも一緒じゃん」
「ごめんね。また今度」
冷淡な拒絶。あからさまな排斥。
美咲の顔から笑顔が消え、困惑と苛立ちが浮かぶ。彼女はプライドが高い。これ以上惨めな思いをしたくないと思ったのか、「ふーん、そっか。じゃあ私、購買でパン買ってくる」と強がって教室を出て行った。
その行き先が購買でないことを、俺は知っている。
彼女が向かったのは、校舎裏の非常階段。黒田の溜まり場だ。
俺は食べかけのパンを袋に戻し、生徒会室へと向かった。ここからが、今日の「業務」の本番だ。
生徒会室に入ると、生活指導担当の教師である武田先生が既に待っていた。強面だが、生徒のことを真剣に考えてくれる熱血教師だ。
「高城、話というのはなんだ? 昼休みにわざわざ呼び出して」
「お忙しいところ申し訳ありません、武田先生。実は、生徒会長として、看過できない事態についてご報告があります」
俺は、昨日作成した『特別指導要録』のファイルを差し出した。
武田先生は怪訝そうな顔でそれを受け取り、中を開いた。
「これは……」
「3年B組の黒田翔太、及び3年A組の西園寺美咲に関する、校内規律違反の記録です」
先生の目が大きく見開かれた。ページをめくる手が止まる。そこには、俺が昨日撮影した写真――顔は特定できるが、過激な部分は黒塗りで隠してある――と、詳細な行動記録、そして他の生徒からの「黒田による威圧行為」の証言(これは以前から集めていたものだ)が綴じられていた。
「西園寺が……? まさか、あの真面目な西園寺がか?」
「信じたくはありませんでした。ですが、これが事実です。彼女は最近、体調不良を理由に生徒会を欠席していますが、実際には黒田と校内で密会を繰り返しています。これは単なる男女交際を超えた、公序良俗に反する行為であり、他の生徒への悪影響も懸念されます」
俺は淡々と、事務的に説明した。感情を挟んではいけない。「嫉妬に狂った彼氏の告げ口」だと思われたら、この資料の価値が下がる。あくまで「学校の規律を守る生徒会長」としての報告でなければならない。
「……高城、お前、西園寺とは付き合っていたんじゃないのか?」
武田先生が、痛ましいものを見るような目で俺を見た。
「過去形にしてください。公私混同はしません。今の彼女は、生徒会の役員としての資質を欠いています。……つきましては、この資料に基づき、西園寺美咲の生徒会役員解任を正式に申し立てます」
俺は、あらかじめ用意していた解任届を机の上に置いた。
理由は『長期間の活動不参加』と『生徒会規約に反する素行』。
武田先生はしばらく沈黙し、深い溜め息をついた。
「……分かった。この資料は学校側で預かる。黒田については、これまでも問題が多すぎた。今回の件が決定的証拠になれば、停学どころか退学勧告もあり得る話だ。西園寺についても……親呼び出しの指導は免れんぞ」
「はい。覚悟の上です。学校の秩序のためにお願いします」
頭を下げて退出する俺の胸には、痛みなど微塵もなかった。あるのは、計画が順調に進んでいるという冷たい達成感だけだ。
これで、美咲を守ってくれる大人の盾も消えた。彼女は丸裸だ。
放課後。
俺は生徒会室で美咲を待っていた。解任の手続きを本人に通知するためだ。
チャイムが鳴ってからしばらくして、美咲が気怠げに入ってきた。
「あー、疲れた。ねえ律くん、今日はもう帰っていい? 頭痛くて」
彼女の制服からは、昼間よりも強い煙草の臭いがした。昼休みだけでなく、午後の授業もサボっていたのだろう。
「座れ、西園寺」
「え……?」
俺が名字で呼んだことに、美咲が反応した。いつもなら「美咲」と呼ぶ俺が、他人行儀な呼び方をしたことに違和感を覚えたようだ。
俺は机の上に、解任通知書を滑らせた。
「これは……なに?」
「生徒会役員の解任通知だ。本日付で、お前を生徒会から除名する」
美咲は紙を拾い上げ、目を丸くした。
「除名!? なんで!? 私、ちゃんとやってたじゃん!」
「『ちゃんと』? 無断欠席、虚偽の体調不良報告、そして活動実績の欠如。これだけ理由が揃えば十分だ。これ以上、他の役員の士気を下げるわけにはいかない」
俺は冷徹に事実を突きつけた。
美咲の顔が赤くなる。怒りと、焦りと、そして自分を正当化しようとする歪んだプライドがない交ぜになった表情。
「ひどいよ律くん! 私、本当に具合悪かったのに! 彼女の体調より、規則の方が大事なの!?」
彼女はまだ、自分が被害者だと思っている。「優しい律くん」なら、泣きつけば許してくれると思っている。その甘えた考えが、俺をどれほど苛立たせるか知らずに。
「俺は生徒会長として判断しただけだ。文句があるなら、職員会議で弁明すればいい。ただし、その時はお前の『本当の体調不良の原因』についても詳しく説明してもらうことになるが」
俺が鋭い視線を向けると、美咲は口を噤んだ。
「本当の原因」という言葉に、心当たりがありすぎるからだ。彼女の視線が泳ぐ。ここで騒げば、黒田とのことが公になるかもしれない。それはまずい、という計算が働いたのだろう。
「……分かったわよ。どうせ、こんな堅苦しい生徒会、もう飽きてたし」
美咲は捨て台詞を吐き、通知書を雑に鞄に押し込んだ。
「これでもう、律くんに気を使わなくていいんだ。せいぜい、その大事なアルバム作りでも頑張ってれば?」
彼女は踵を返し、ドアを乱暴に開けて出て行った。
その背中は、「私には黒田くんがいるから平気」と語っていた。生徒会という居場所を失っても、クラスで孤立しても、あの刺激的な恋人がいれば自分は特別な存在でいられる、と。
だが、彼女は知らない。
その「頼みの綱」である黒田こそが、次に切り崩されるターゲットであることを。そして、黒田という男が、窮地に立たされた時に女を守るような人間ではないことを。
「会長……大丈夫ですか?」
奥の資料室から、一部始終を聞いていた一ノ瀬が出てきた。
「ああ、問題ない。これで、第一段階は完了だ」
俺はパソコンに向き直り、卒業アルバムのレイアウト画面を開いた。
3年生の集合写真。美咲が写っている写真のデータを呼び出す。
拡大し、トリミングツールを選択する。
「一ノ瀬、アルバムの編集方針を少し変更する。不登校や活動実績のない生徒の掲載スペースは、最小限に留める。これは『公平性』を保つための措置だ」
「……はい。レイアウトの調整、手伝います」
画面の中で、美咲の笑顔が少しずつ小さくなっていく。
彼女が教室で孤立し、生徒会を追われ、最後にすがる場所。それを奪った時、彼女はどんな顔をするだろうか。
窓の外では、また黒い雲が広がり始めていた。
これから降り注ぐ雨は、彼女にとっては冷たい泥沼への入り口となるだろう。
俺は、次の手「警察への情報提供」の準備に取り掛かるため、机の引き出しからUSBメモリを取り出した。そこには、黒田が校外で起こした万引きや器物損壊の証拠写真――彼自身がSNSにアップしてすぐに消したものを、俺がアーカイブ保存しておいたもの――が入っている。
包囲網は完成した。あとは、獲物が罠にかかるのを待つだけだ。
俺の指先が、冷たく、そして軽やかにキーボードを叩き始めた。
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生徒会長の俺を裏切り、不良と学校をサボり続けた彼女。卒業アルバムの編集権限を持つ俺が『合法的な存在消去』を実行した結果、彼女は卒業式で誰からも話しかけられなくなった @flameflame
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