「僕たちは生きているだけ」
和み
第1話
朝の光が、錆びたトタンをゆっくり撫でていく。鉄と土の匂いが風に乗り、鼻の奥に沁みこんだ。
モグちゃんは隣で静かに毛づくろいをしていた。丁寧で、滑らかな舌の動きで。首元の鈴が、ほんの少し揺れて鳴った。
初めて出会った日、彼はやせこけた体でトタンの下に丸まっていた。
餌やりさんは叱られながらも毎日声をかけ、そっと皿を置いて帰っていった。
数日後、彼はトタンの影から姿を現し、おひさまに向かって大きく体を伸ばした。
その瞬間から、ここでの生活が始まった。
風の音を聴きながら、僕たちはただそこにいた。
生きるというより、息をしているだけ。
それでじゅうぶんだと思っていた。
──餌やりさんが来るまでは。
キィー。
自転車のブレーキ音。カサカサと紙袋の触れ合う音。
モグちゃんは耳を立て、尻尾をひと振りした。僕は少し遅れて立ち上がる。
「今日はマグロの缶詰よ」
優しい声が落ちるたび、世界が少し明るくなる気がした。
お皿の前に並び、陽だまりに溶ける。それが日常だった。
それが永遠だと、信じていた。
──けれど永遠なんて、人間の影ひとつで簡単に壊れてしまう。
ある日、モグちゃんがいなかった。
路地の奥から、風ではない音が響いた。
ギャアッ!
モグちゃんの声だ。
考えるより早く、足が勝手に走り出す。心臓が喉を叩き、息が焼ける。
誰か助けて──モグちゃんを助けて!
角を曲がった先、体の大きな男がモグちゃんを掴み、何かを振り下ろしていた。
モグちゃんの足が、静かに落ちた。
激痛と恐怖と絶望が混ざった叫びが、夜の空気を裂いた。
世界は音を失い、時間が止まる。
怖かった。それでも走った。
モグちゃんから男を引き離したかった。
男の横を風のようにすり抜けたとき、目が合った。
──その目には、何もなかった。
色も、形も、命も。
ただ、空っぽの闇だけ。
その闇が僕を追ってくる。
路地を抜け、塀を越え、知らない庭へ転がり落ちた。影に身を縮め、震えをこらえる。
足音が近くを探し回る。心臓が爆発しそうだ。
モグちゃんの悲鳴が耳の奥で無限に砕け続けた。
どれほどの時間が過ぎただろう。
薄明かりが満ち始めたころ、自転車の音が聞こえた。餌やりさんだ。
「モグちゃん……?」
涙を含んだ細い声。
ぐったりとしたモグちゃんを抱き上げ、叫びながら走り去っていった。
血の匂いと、沈黙だけが残った。
夜が来る。
塀の上の月が世界を白く染める。
その光の中で、僕はモグちゃんの影を探した。
風に、鈴の音のような気配が混ざっている気がした。
僕たちは仲良しだった。毎日、一緒に眠った。
僕は小さく泣いた。
この町では最近、僕たちの仲間がひとり、またひとりと消えていく。
首を切られた子。毒を盛られた子。足を失っても必死に生きようとする子。
それでも逃げられない。
ここでしか、生きられないから。
ここには、ご飯がある。皿がある。
人の手の匂いが残っている。
腐ったゴミを漁らなくても、ミミズを掘らなくても、生きられる。
その代わりに、死がある。
僕たちは人間の残酷さと優しさを知っている。
もし優しさを知らなければ、捕まることはなかったのかもしれない。
でも僕たちは、「守ってくれる手」という奇跡を知ってしまった。
夜。歩き回る足音。息を潜める。
それでも見つかり、壊され、消されてしまう。
僕たちは、何か悪いことをしただろうか。
ただ、生きているだけ。
それでも、人間は追ってくる。
石を投げ、棒を振り、毒を撒く。まるで楽しんでいるかのように。
命が終わる音が、夜の底で静かに響く。
どんな日でも、朝は来る。
餌やりさんが戻った夜。目は赤く腫れていた。
言葉を失ったまま皿を置き、「ごめんね」と小さくつぶやいた。
その声で、すべてを悟った。
モグちゃんは、もういないのだ。
風が吹く。
空のどこかで、鈴のような音がした。
僕は目を閉じる。
耳の奥で、モグちゃんの声がやわらかく鳴いた。
──人間が来なければ。
僕たちは、ただ生きているだけでよかった。
それだけでよかった。
それでも僕は、明日もここで皿を待つ。
お腹が空くから。
空っぽの体の中で、まだ小さな灯が揺れているから。
モグちゃんの記憶が、その灯を消さないように支えてくれる。
朝が来る。塀を光が照らす。
モグちゃんの血の痕に、小さな花がひとつ落ちていた。
餌やりさんに渡すために、摘んでいたのだろう。
僕はそっとくわえ、皿のそばに置いた。
餌やりさんはそれを手に取り、いつまでも泣き続けた。
僕は目を細め、
生きていることの痛みを、舐めるように確かめる。
──僕たちは、生きているだけ。
それが、すべてなのだ。
完
あとがき
この物語は、ニュースで見た「猫虐待事件」をきっかけに書きました。
私たち人間の「優しさ」と「残酷さ」は、紙一重のところにあります。
モグちゃんたちは、何も悪くありません。ただ、生きていただけです。
それでも、彼らの命は奪われていく。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
「僕たちは生きているだけ」 和み @nagomi069
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