第2話 追放裁判:改竄された鑑定
法廷へ向かう回廊は、朝から香の匂いが濃かった。白耀教の神官が何人も立ち、祈りの言葉を薄く重ねている。祝福の膜が空気に張りつき、呼吸するたびに肺の奥が乾いた。
俺は鑑定師の制服を着ていた。白い袖、胸元の小さな印。いつもなら、この印は証拠を扱う者の免罪符だった。だが今日は、その印が標的を示す札にしか見えなかった。
手首の内側に、紙束の感触があった。鑑定書。王女殿下の病は呪いだ。呪いは呪具に繋がり、呪具は権力の近くにある。書くべきことは、それだけだった。だが、それだけを書けば刺さる相手がいる。
護送の騎士が俺の横で足を止めた。扉の向こうから、ざわめきが漏れている。
「……落ち着け。声は揃えろ。怒りは証拠を曇らせる」
自分に言い聞かせ、扉が開くのを待った。
ルゥはまだ姿を見せなかった。袖の内側、俺の腕に沿って小さな温もりだけがある。王城の中で精霊が目立てば、余計な因縁が増える。だから今は隠す。隠すのも、生存の技術だった。
扉が開き、俺は法廷へ押し出された。
法廷は白い石で組まれ、天井が高かった。光取りの窓から差す日差しが、床の紋章を薄く照らしている。傍聴席には貴族、神官、官吏、騎士が並び、視線が一斉に俺へ集まった。
裁判官が木槌を鳴らした。
「開廷する。被告、アルト・ヴァレン」
木槌の音が胸骨に響いた。左右に並ぶ神官が祈りの言葉を小さく重ね、白耀教の結界が法廷を包んだ。守りと言えば聞こえはいい。だが、これは逃げ道を塞ぐための膜だ。
裁判官が淡々と告げた。
「アルト・ヴァレン。お前は王女殿下の御身に、呪具を持ち込み、祝福を汚した疑いがある。さらに、鑑定師の職権を濫用し、虚偽の鑑定書で王家を混乱させた」
傍聴席がざわめいた。呪いという言葉は、ここでは禁句に近い。禁句だからこそ、権力はそれを武器にする。
俺は背筋を伸ばし、声の高さを揃えた。
「その疑いは事実ではない。俺は鑑定師として、王女殿下の病を鑑定し、呪いの痕跡を報告しただけだ。虚偽ではない」
宰相マグヌス・ローデンが、検察役の席から穏やかな笑みで頷いた。黒と金の礼服が日の光で鈍く光り、指に光る金の指輪が視界の隅で揺れた。
「君の忠義は理解している。しかし、君の鑑定には重大な瑕疵があった。王女殿下の祝福を乱したのは、君の不注意だ。君が携行していた呪具の残滓が確認されている」
瑕疵。不注意。便利な言葉だ。中身を語らず、相手を黙らせるための言葉。
俺は紙束を掲げた。金粉で封をした鑑定書だ。祝福紋の筋が薄く残り、改竄を許さない。少なくとも、俺はそう信じていた。
「証拠を提出する。鑑定書だ。俺の封印は金粉と祝福紋で残してある。読み上げれば、内容の真偽は分かる」
役人が無言で近づき、紙束を受け取った。指先が紙の角を擦った。嫌な音がした。紙束はすぐに台の裏へ消えた。
俺は裁判官を見た。
「提出物は被告の目の前で確認するべきだ。鑑定師として要求する」
裁判官は瞬きもしなかった。
「要求は退ける。秩序を乱すな」
秩序。ここで秩序とは、筋書きのことだ。
ルゥが、袖の内側で小さく鳴いた。
「今、やばいのが動いた。紙の匂いが変わった」
俺は唇だけ動かした。
「黙れ。誰にも聞かれるな」
裁判官の視線が一瞬だけ、俺の袖へ落ちた。冷たく、そこに人間の温度がなかった。見えないはずのものを見ている目だった。
裁判官が言った。
「提出物を確認した。読み上げる」
読み上げられたのは、俺の書いた文ではなかった。
「鑑定書。王女殿下の祝福回路に外来の黒祝反応あり。原因は鑑定師アルト・ヴァレンが携行した呪具の残滓。被告は自らの罪を隠すため、権力中枢への濡れ衣を画策した」
傍聴席がどよめいた。神官が異端と囁き、騎士が剣に手をかけた。医師レオンハルトが立ち上がりかけ、しかし宰相の咳払い一つで座り直した。
俺の喉が乾いた。乾いたからと言って、声が揺れるわけにはいかなかった。
「それは偽物だ。俺はそんな鑑定書を書いていない。祝福紋の筋が――」
「封はここにある」
裁判官が紙束を掲げた。確かに金粉の筋は走っていた。だが筋の形が違う。俺の癖は左端を二度なぞる。そこが一度しか光っていなかった。
偽造の手口は単純だった。中身を入れ替え、封だけを真似た。封は真似できる。俺の癖まで真似るには、俺の手元を知る人間が必要だ。
俺は踏み込んだ。
「封の形が違う。ここで筆跡と金粉の癖を照合できる。鑑定師の立会いを求める。王立医務院の医師でもいい。第三者に――」
「却下だ」
裁判官が木槌を鳴らした。
「被告は場を混乱させ、審理を引き延ばしている。秩序を乱すな」
傍聴席が安堵したように息を吐いた。真実より、短い結論が欲しい顔だった。
宰相が哀れむように首を振った。
「君は混乱している。罪を認め、悔い改めれば、刑は軽くなる。王女殿下のためにも、ここで終わらせたまえ」
王女殿下のため。その言葉が、さらに汚かった。王女殿下を盾にする者が、王女殿下を守るはずがない。
「俺はやっていない」
言い切った瞬間、結界の膜が僅かに鳴った。祈りの声が強くなり、俺の周囲の空気だけが重くなる。
裁判官が淡々と告げた。
「追加証拠を提示する」
役人が布包みを持ってきた。開かれた中には、黒い石が嵌められた指輪があった。見覚えのない物だった。
「被告の私物から発見された呪具である」
俺は反射的に首を振った。
「俺の物ではない。検めたのは誰だ」
「王城の規定に従った」
規定。秩序。どれも便利な盾だ。
俺は指輪へ手を伸ばそうとしたが、騎士が槍の柄でそれを遮った。触れさせないのは、鑑定させないためだ。
「触れれば分かる。俺の鑑定は呪具の残滓を読む。ここで確認させろ」
裁判官は木槌を鳴らした。
「却下だ」
二度目の却下で、俺は理解した。ここは裁判ではない。儀式だ。結論を正義の形に整える儀式。
ルゥが袖の内側で鼻を鳴らした。
「黒祝。臭いが新しい。さっき付けたやつだ」
俺は視線を上げた。裁判官の手元が見えた。指先に、ほんの僅かな黒い染みがあった。インクの汚れに見える。だが臭いが違う。ルゥの言う黒祝の臭いが、その染みから漂っていた。
宰相の指輪だけじゃない。裁く側が黒祝に触れている。
俺の背中が冷えた。証拠が奪われるのは当然だった。封が真似られるのも当然だった。裁く側が同じ穴なら、誰が裁く。
裁判官が宣告した。
「アルト・ヴァレンを、王城鑑定師の職より解任する。罪状は祝福汚損および呪具携行。刑は追放。行き先はルインフェルド辺境。帰還を禁ずる」
神官が祈りを捧げ、騎士が俺の腕を掴んだ。痛みで現実が戻った。
俺は最後に、宰相を見た。宰相の笑みは穏やかなままだった。穏やかすぎて、吐き気がした。
「王女殿下はどうなる?」
問いは、誰にも届かなかった。答える必要がないからだ。ここに王女殿下はいない。守るべき当人が不在の裁きなど、どこまでも軽い。
◇
判決のあと、俺はそのまま控室へ引きずられた。白い壁の小部屋で、騎士が無言で俺の荷を検めた。診療道具はない。鑑定道具もない。あるのは筆記具と紙束だけだったのに、それすら机の上へ放り出された。
「職印を渡せ」
騎士が言った。胸元の小さな印を剥がす指が荒く、糸が裂けた。布が裂ける音は、俺の肩書きが裂ける音だった。
紙束の中から、俺の控えの鑑定書が抜き取られた。金粉の袋も、黒インクも。証拠を作る手だけを、先に奪う。手際が良すぎる。
俺は最後に小さな銀の指輪を握り込んだ。騎士の視線が逸れた一瞬に、袖の内側へ滑り込ませる。ルゥがすぐにそこへ体を押し当て、隠すように丸くなった。
「賢い」
袖の中で小声がした。俺は返事をしなかった。返事をすれば、息でばれる。
控室の扉が開き、外の回廊へ押し出された。遠くで鐘が鳴っていた。祝福の鐘だ。誰かの救いの音だ。だが今の俺には、追放の合図にしか聞こえなかった。
◇
石牢の床は湿っていた。錠の音が遠ざかり、足音だけが残った。俺は壁にもたれ、袖の内側へ指を入れた。そこに小さな温もりがあった。毛玉みたいな精霊が、丸くなって息をしていた。
「聞こえたか」
「聞こえた。裁判官、臭い。あいつ、黒祝を触ってる。宰相と同じ臭いだ」
「同じ穴……いや、穴の大きさが違う」
宰相は表に立つ。裁判官は裁く側だ。裁く側が腐っているなら、証拠はいつでも消される。
俺は手を握り締めた。爪が掌に食い込み、痛みが残った。その痛みだけが現実だった。
「証拠を一枚で出したのが間違いだった」
「今さら言うなよ。次は、奪われない形にしろ」
ルゥが銀鈴を鳴らした。小さな音が、湿った牢に乾いた線を引いた。
俺は目を閉じた。王女殿下の黒紋が脳裏を掠めた。病は呪いだ。呪いは権力のすぐ近くにある。俺の鑑定は間違っていない。間違いではなく、踏み込んだのだ。
だから追放された。
「辺境へ行く。そこで生き残る。次は、証拠を残すだけじゃない。証拠を守る」
ルゥが笑った。
「いいね。じゃあ、まずは生き残る作戦を立てようぜ。死にたくないだろ?」
俺は頷いた。答えはもう決まっていた。生き残って、救って、裁く。その順番を間違えない。
【鑑定書】
対象:法廷提出鑑定書
分類:偽造文書および証拠差し替え
症状:文体・封印癖の不一致、内容の捏造、紙質の微差
原因:提出物の差し替えと金粉封印の模倣
発動条件:権力者が証拠管理を掌握し、立会いを排除した場合
解除条件:原本複製の分散保管、第三者立会い封印、読み上げ前の照合
危険度:高
推奨処置:鑑定書の多重化、封印癖の記録、証拠保全手順の確立
備考:裁判官の指先に黒祝の臭い。単独犯ではない
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