第5話 忘れられた夜のヴィンテージ

 地下へと続く石造りの階段は、外の喧騒を遮断するように冷え切っていた。

 東京都世田谷区、成城。鬱蒼とした庭園に囲まれたその邸宅の地下には、一般人には想像もつかない巨大な「墓標」が広がっていた。


「……寒い。ここ、冷蔵庫の中にいるみたい」


 佐倉ひまりが、ワークウェアの上から自分の腕を抱いて小さく震えた。28歳。発光するブロンドと大きな瞳。彼女が持つタブレットの液晶画面だけが、暗い地下室で青白く光っている。


「ワインにとっては、これが理想のゆりかごなのよ、ひまりちゃん」


 花房凛が、手袋をはめた手で壁のスイッチを入れた。37歳。端正な美貌が、オレンジ色の照明に照らし出される。

 点灯した光の先に現れたのは、壁一面を埋め尽くす木製のラックと、そこに整然と横たわる数千本のワインボトルだった。


「今回の故人、高村毅一。元駐仏公使。独身を通した彼の遺産は、この地下にある数億円相当のコレクションです。……でも、九条さん。問題はあそこよ」


 凛が指し示したのは、セラーの奥にあるテイスティング用の小さなテーブルだった。

 そこには、1本のボトルが置かれていた。

 ラベルには『Château Mouton Rothschild 1982』。

 五大シャトーの一つであり、伝説的なヴィンテージ。時価数十万円を下らないそのボトルは、コルクが抜かれ、グラスには半分ほど、黒ずんだ液体が残されていた。


「……何かが、足りない」


 九条蓮が、地を這うような低い声で呟いた。

 42歳。彫刻のように深い顔立ち。彼はテーブルに近づき、抜かれたまま放置されたコルクを手に取った。

 九条の鼻腔が微かに動く。

『痕跡のレシピ(トレース・レシピ)』――。

 空気中に漂う微量な香気成分から、彼はこの部屋で起きた「食のドラマ」を逆再生していく。


「彼はこのワインを楽しみにして開けたんじゃない。……恐怖に震えながら、何かを確認するために開けたんだ」


「……相変わらずね、蓮。その鋭すぎる鼻も、哀愁漂う背中も」


 地下室の入り口から、湿り気を帯びた、そしてどこか退廃的な色気を孕んだ声が響いた。

 九条の身体が、一瞬だけ硬直した。


 ゆっくりと振り返る彼らの視線の先に、一人の女性が立っていた。

 深山 雫。40歳。1985年生まれ。

 アンニュイでミステリアスな佇まい。

 無造作に切り揃えられたブロンドのショートヘア。少し隙間のある前歯が覗く薄い唇には、すべてを嘲笑うような、あるいは慈しむような微かな微笑が浮かんでいる。

 彼女は、完璧に身体のラインにフィットした黒のタキシード風スーツを纏い、胸元には世界的ソムリエの証である金色のバッジが鈍く光っていた。

 雫が歩くたびに、フランスの夜を思わせる、深みのある香水の匂いが地下室に広がっていく。


「雫……。なぜ、ここに」


「あなたの仕事には、私の舌が必要でしょう? 忘れたとは言わせないわよ、パリの夜を」


 雫は九条の目の前まで歩み寄ると、その美しい指先で九条のワークウェアの襟元を整えた。

 その親密な距離感と、40歳の女性だけが持つ圧倒的な包容力に、ひまりと凛、そして後方で鑑定をしていた澪、さらには解剖帰りの梓までもが言葉を失った。


「ちょっと、誰ですかこの人……。ボスの知り合い?」


 ひまりが、あからさまな対抗心を剥き出しにして尋ねる。


「……深山雫。世界で最も『香りの真実』を知るソムリエだ」


 九条の短い紹介に、雫はふふ、と喉の奥で笑った。


「小娘さんたち、自己紹介は後でいいわ。……蓮、このムートン。コルクの裏の匂いを嗅いでみて。……彼が最期に吐き出した『絶望』が混じっているから」


 雫はテーブルのワイングラスを取り上げると、無造作にその香りを吸い込んだ。鼻腔が僅かに広がり、彼女の瞳が官能的に細められる。その仕草に、その場にいた男のスタッフたちは一瞬で心を奪われた。


「このワイン、死んでいるわ。……ブショネじゃない。ワインの方が、この飲み手を拒絶したのよ。……蓮、この男が死ぬ前に『何を食べていたか』。梓さんに聞くまでもないわよね?」


 神楽坂梓が、白衣を翻して前に出た。37歳。長身が、雫と対峙する。


「胃の内容物なら、もう解剖結果が出ているわ。……極めて高純度の『フォアグラのパテ』と、『ドライいちじく』。完璧なペアリングのはずよ。でも、彼はそれを一口食べて、吐き出している」


「……そうか。フォアグラか」


 九条は目を閉じ、再び『痕跡のレシピ』を起動させた。

 故人・高村毅一。彼は外交官時代、ある大きな不祥事を揉み消した。その際、友人を裏切り、その友人が愛した「小さな食堂のレシピ」を奪い取っていた。

 この地下にあるワインはすべて、その汚れた金で買い集めたもの。

 彼は最期の日、最も愛したはずの「最高級のムートン」を、奪ったレシピで作った「最高のフォアグラ」と共に味わおうとした。


「……だが、舌は裏切れない」


 九条の声が、冷たく響く。


「罪の味を覚えた舌には、最高級のワインは『毒』にしか感じられない。彼はこのワインを一口飲んだ瞬間、自分がしてきたことのすべてを突きつけられたんだ」


「だから、彼は飲み残した。……絶望して、そのまま心臓が止まったのね」


 如月澪が、大きな瞳を悲しげに伏せた。32歳の彼女には、そのワインが放つ強烈な後悔の念が見えているようだった。


「……蓮。このままじゃ、この部屋の数千本のワインは、ただの『死体』の山よ。……救ってあげなさい。この男が、友人と分かち合いたかった『本当の味』で」


 雫が、九条の背中にそっと手を添えた。

 九条は無言で頷くと、セラーの一角にある調理台へと向かった。

 彼が純白のコックコートを羽織る。

 ひまり、澪、凛、梓、そして雫。20代から40代まで、それぞれの世代を代表する絶世の美女たちが、一人の男の背中を見つめていた。


 九条が今回作ったのは、フォアグラのテリーヌではない。

 彼が用意したのは、どこにでもある「鶏のレバー」と、たっぷりの「牛乳」、そして「安価なブランデー」だった。


「……何を作るんですか、ボス」

「……『嘘つきのリエット』だ」


 九条の手が、魔法のように動く。

 レバーの血を抜き、香味野菜と共にじっくりと煮込み、乳鉢ですり潰していく。

 かつてパリの三ツ星で彼が雫と共に供していた、どんな高価な料理よりも、今、九条が作っているものは「生々しい」匂いを放っていた。


 雫は、セラーの奥から別のワインを取り出してきた。

 それは1982年のムートンではなく、名もなき村で作られた、若くて荒々しい赤ワインだった。


「……蓮。この『未熟なワイン』が、あのリエットには必要よ。……二人で、あの日の間違いを正しましょう」


 九条が完成させたリエットを、雫が選んだワインと共に、依頼人である故人の甥に差し出す。

 故人の甥は、伯父を「冷酷な独裁者」と呼び、このセラーのワインをすべて売り払おうとしていた男だった。


「……食べてみてくれ。……あなたの伯父が、捨てられなかった『唯一の純粋』だ」


 甥が一口、リエットを口にし、ワインを流し込む。

 その瞬間、彼の表情が劇的に変わった。


「……なんだ、これ。……すごく……泥臭くて、でも、懐かしい」


 それは、高村が外交官になる前、友人と二人で場末のビストロで夢を語り合っていた頃に食べていた、たった5ユーロの料理の味だった。

 成功と引き換えに捨てたはずの、熱い友情と志。

 高村は死の直前、あの豪華なフォアグラの中に、この「安っぽいリエット」を探していたのだ。しかし、今の彼にはもう、それを作ることはできなかった。


「……救われたわね、蓮」


 雫が、九条の肩に頭を預けるようにして囁いた。

 その光景に、ひまりが耐えきれずに割り込んだ。


「ちょっとボス! 雫さん! まだ後片付けが残ってますから! べたべたしないでください!」


「ふふ、元気な小娘。……蓮、あなたも大変ね。こんな賑やかな場所を見つけるなんて。……でも、あなたの魂を本当にペアリングできるのは、私だけよ」


 雫は思わせぶりな笑みを浮かべ、九条の耳元で小さく「Je t'aime」と囁いた。


 九条蓮は、渋い顔に困惑の色を滲ませ、溜息を吐いた。

 28歳のひまりの熱情。32歳の澪の予感。37歳の凛の規律。37歳の梓の観察。そして、40歳の雫の執着。

 5人の美しきヒロインたちに囲まれた、遺品整理士の夜は更けていく。

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遺品整理士の最後のご馳走 〜三ツ星シェフは死者の台所に立つ〜 @DTUUU

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