第4話 白衣の死神と、命のスープ

 東京都目黒区、青葉台。

 迷路のような坂道の先に建つ、コンクリート打ち放しのモダンな邸宅。そこはまるで、現代美術館のように冷たく、無機質な空気が支配していた。

 そのリビングの中央、デザイン家具の巨匠が手がけた椅子の上で、一人の老人が永遠の眠りについていた。


「死体は嘘をつかない。……けれど、この死体は少しだけ、私を困惑させるわ」


 その声は、静まり返った部屋の中で、冷たく、そして艶やかに響いた。

 九条蓮がリビングへ足を踏み入れると、そこには場違いなほど鮮やかな「光」があった。

 神楽坂梓。37歳。1988年生まれ。

 176センチメートルの圧倒的な長身。白衣の下にタイトな黒のタートルネックを纏い、モデルのような長い脚にはスラックスが吸い付いている。

 陶器のような白い肌に、クォーターゆえのプラチナブロンドの髪が、窓から差し込む陽光を反射して眩いばかりに輝いていた。

 彼女は九条の方を振り返ると、理知的な光を宿した瞳を細め、いたずらっぽく微笑んだ。


「あら、九条さん。また『死者の声』を聴きに来たの? 相変わらず、その彫刻のような顔には死の香りがよく似合うわね」


 梓の言葉に、九条の隣で佐倉ひまりが頬を膨らませた。


「ちょっと神楽坂先生! ボスを変な目で見るのはやめてください。私たちは仕事をしに来たんですから」


 28歳のひまりが、ブロンドの髪を揺らして梓を牽制する。しかし、176センチメートルの長身から見下ろす梓の余裕に、ひまりはどこか完敗したような表情を浮かべた。


「ふふ、可愛いひまりちゃん。嫉妬は美容の敵よ。……それより九条さん、これを見て」


 梓は、解剖記録が記されたタブレットを差し出した。


「故人、羽鳥栄一。74歳。徹底した健康管理で知られ、食事はすべて計算されたサプリメントと栄養流動食のみ。死因は予定通りの虚血性心疾患……。でもね、彼の胃の内容物から、極微量の『野生のセリ』と、それから……『川魚の脂』の反応が出たの」


 九条はその言葉に、鋭い眼差しを向けた。

 185センチメートルの巨躯を屈め、キッチンのゴミ箱を調べる。そこには、高価なサプリメントの空き容器が整然と捨てられていたが、その底に、微かな、本当に微かな泥の匂いが残っていた。


「……梓。お前の言う通りだ。彼は死ぬ直前、管理された栄養ではなく、土の匂いを求めた」


「九条さん、その根拠は?」


 背後から、もう一人の大人の女性の声がした。

 花房凛が、いつもの完璧なスーツ姿で現れる。37歳。気品ある美貌が、梓の挑戦的な美しさと火花を散らす。


「凛子、またそんな堅苦しい格好して。遺産相続の計算ばかりしてると、脳が石灰化しちゃうわよ?」

「余計なお世話よ、梓。……蓮、この家には『野生のセリ』なんてどこにもないわ。彼はこの10年、家から一歩も出ていないのよ?」


 37歳の親友同士による、火の出るようなマウンティング。九条はそれを無視し、如月澪に視線を送った。

 32歳の澪は、既にキッチンの隅にある、古びた、しかし大切に手入れされた「土鍋」の前に座り込んでいた。


「……この土鍋だけが、泣いています」


 澪の大きな瞳が、土鍋の底の微かな傷を見つめる。


「これは、彼が成功する前……信州の山奥で暮らしていた頃のものです。他の高級な食器とは、明らかに『体温』が違う」


 ひまりがタブレットを高速で操作し、故人のルーツを掘り起こす。


「ボス、出ました! 羽鳥栄一、40年前までは信州の貧しい猟師の息子でした。都会に出てITで成功した後は、過去を一切隠して『科学的健康主義者』を演じていたみたいです」


「……なるほどな。科学で身体を守り、効率で人生を埋め尽くした末に、彼が最期に身体に流し込みたかったのは、科学の対極にあるものだったわけだ」


 九条は、作業着のポケットからコックコートを取り出した。

 彼がそれを羽織った瞬間、176センチメートルの梓も、気位の高い凛も、思わず息を呑んだ。

 九条蓮が放つ、プロフェッショナルとしての圧倒的なオーラ。それは、死を分析する梓の科学も、法で人を縛る凛の倫理も、一瞬で凌駕する「生の力」だった。


「ひまり、信州から野生のセリと、天然の岩魚を取り寄せろ。……梓、お前が胃で見つけた『成分』の正体を、今から見せてやる」


 九条の調理が始まった。

 高級マンションの最新式電磁調理器の上に、不釣り合いな土鍋が置かれる。

 九条は、取り寄せた岩魚を、かつてパリで培った超一流のナイフさばきで、しかしその所作は猟師の如く荒々しく卸した。

 梓は、九条の逞しい前腕の筋肉が動くたびに、うっとりと目を細めた。


「……素晴らしいわ。解剖学的にも、完璧な筋肉の動きね。九条さん、その腕、いつか私に解剖させてくれない?」

「梓、悪ふざけはやめなさい」


 凛が冷たく制すが、梓は楽しそうにブロンドの髪をかき上げた。


 土鍋の中で、岩魚の骨から取った出汁が、野生のセリの香りと共に弾ける。

 それは、洗練されたフランス料理のそれではない。泥臭く、しかし力強い、生命の匂いだった。


 1時間後。

 遺族である羽鳥の息子が、怪訝な顔でリビングに座っていた。


「父が、こんなものを食べたがっていたというのか? 栄養バランスも最悪で、塩分過多だ。父が最も忌み嫌っていた食事じゃないか」


「食べてから判断しろ。……これは、お前の父親が、羽鳥栄一という鎧を脱いで、一人の人間に戻ろうとした証だ」


 九条に促され、息子が一口、その「岩魚のセリ汁」を啜った。


「…………っ」


 その瞬間、息子の脳裏に、かつて父に連れられて行った信州の、冷たい川の記憶が蘇った。

 成功してからは一度も見せなかった、父の真っ黒に日焼けした笑顔。


「いいか栄一、人間はな、土を喰って生きるんだ」


 幼い頃に聞かされた、父のたった一つの教え。

 サプリメントに囲まれて死んだ父は、最期に、自分が何者であったかを思い出したかったのだ。


「……美味い。……親父……そうか、あんた、ずっと帰りたかったんだな」


 息子が慟哭する横で、梓は静かに微笑んだ。


「九条さん。……科学的には説明できないけれど、私のデータが示した『セリの成分』は、彼の魂の欠片だったみたいね。……認めるわ、あなたの勝ちよ」


「勝ち負けではない。……俺はただ、整理しただけだ」


 九条はそう言うと、静かにキッチンの後片付けを始めた。


 夜。現場を離れた4人の美女と1人の男は、街の灯りを見下ろすレストランにいた。


「ねえボス、今日は監察医務院に寄ってから帰りませんか? 面白い標本があるの」


 梓が、長い脚を組み、九条の顔を覗き込む。そのブロンドのロングヘアが、ワイングラスの赤を反射して妖艶に輝く。


「ちょっと梓先生! ボスは明日も現場なんですから、連れ回さないでください!」


 ひまりが必死に抵抗し、その横で澪が「……死神の匂いが移ります」とボソリと呟く。


「あら、死神の匂いなんて、蓮とは相性がいいじゃない。……ねえ、蓮?」


 凛が、大人びた笑みでワインを傾け、九条に視線を送る。


 九条蓮は、自分を取り囲む4人の、美しくも厄介なヒロインたちを眺め、深く溜息を吐いた。

 渋い顔に、わずかな苦笑が浮かぶ。

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