第3話 鋼の弁護士と、秘密のレシピ

 鎌倉の山間に佇む、威風堂々とした和風建築。かつて政財界の要人がお忍びで通ったという伝説の料亭『五条』の旧本邸は、今や醜い罵声の渦に包まれていた。

 主である五条龍蔵が世を去って1週間。遺された広大な土地と、かつて一世を風靡した料亭の暖簾、そして何より「門外不出の秘伝レシピ」を巡り、3人の子供たちが火花を散らしていた。


「……酷いものですね。死者の香りが、強欲という泥に塗りつぶされている」


 縁側近くに佇み、凛とした声でそう呟いたのは、花房凛だった。

 37歳。1989年生まれ。知性と気品に満ちた美貌。意志の強そうな太く整った眉に、アーモンド形の大きな瞳。黒髪のセミロングをハーフアップにし、仕立ての良いネイビーのパンツスーツを完璧に着こなしている。

 彼女の存在は、修羅場と化した大広間において、一輪の冷徹な白百合のようだった。その圧倒的な美しさと「鉄の女」と称される弁護士としての威厳に、怒鳴り合っていた親族たちも一瞬言葉を失う。


「花房先生。法的な見解はもういい。とにかく、親父の隠し金と『秘伝のレシピ』の場所を吐かせろ!」

「……落ち着きなさい、長男殿。私は相続執行人として、ここにいます。そして、私の判断で専門家を呼びました」


 凛はそう言って、屋敷の入り口へと視線を向けた。

 そこには、紺色のワークウェアを纏った九条蓮と、その左右を固める2人の美女の姿があった。


「お待たせしました、ボス。……うわぁ、こりゃまた、絵に描いたようなドロドロ現場ですね」


 佐倉ひまりが、ブロンドのポニーテールを揺らしながら現場に入ってくる。28歳。発光するような若々しい美しさ。ワークウェアから覗く白い項と、現場の緊張感をどこか楽しむような不敵な笑みが、殺気立った親族たちの視線を釘付けにする。


「……物の叫びが聞こえます。この屋敷は、泣いている」


 ひまりの隣で、如月澪が静かに呟いた。32歳。浮世離れした静謐な美。漆黒の髪に、すべてを見透かすような大きな瞳。彼女が通り過ぎるたびに、冷たい風が吹き抜けるような錯覚を覚える。


「蓮。……久しぶりね。元気そうで安心したわ」


 凛が、わずかに表情を和らげて九条に歩み寄る。その親しげな態度に、ひまりが即座に反応した。


「ちょっとボス! なんですか、その馴れ馴れしい『蓮』呼びは! 顧問弁護士だって聞いてましたけど、そんな仲だったんですか?」

「ひまり、静かにしろ。……凛、呼び出したからには理由があるんだろうな」


 九条蓮が、42歳の渋みを滲ませた低い声で応じる。重厚な佇まい。かつてパリで凛を料理で救い、今は死者の声を料理で届ける男。九条は親族たちの視線を無視し、龍蔵が息を引き取ったという奥座敷へと向かった。


 龍蔵の枕元にあった金庫から見つかったのは、紙切れ一枚。

 そこにはただ一言、『究極の吸い物:黄金の雨』とだけ書かれていた。


「これこそが、料亭五条を支えた秘伝のレシピに違いない! どこかに隠し場所があるはずだ!」


 長男が喚き散らす。しかし、九条はその紙を一瞥し、鼻を動かした。


「……これはレシピではない。死にゆく者が遺した、ただの『願望』だ」

「なんだと!? 貴様、ただの整理業者の分際で!」

「言葉に気をつけなさい。彼は私が認めた唯一の『真実の探求者』です」


 凛が氷のような眼差しで長男を射抜く。37歳の成熟した女性が放つプレッシャーに、長男は言葉を詰まらせた。


「ひまり、デジタル遺品のチェックを。龍蔵が最期まで見ていた映像や画像はないか」

「了解、ボス。……あ、ありました。故人のクラウドストレージに、30年以上前のホームビデオ。……え、これって……」


 ひまりが差し出したタブレットには、古びた映像が流れていた。

 料亭の豪華な懐石ではない。雨の降る日、小さな長屋のような台所で、若い頃の龍蔵と、若くして亡くなった彼の妻が、笑いながら一杯の碗を囲んでいる姿だった。


「……澪。この部屋にある物の中で、最も龍蔵が長く触れていたものを探せ」

「……はい。……これです」


 澪がゴミ捨て場同然の物置から拾い上げたのは、真っ黒に錆びついた、小さな鰹節削り器だった。


「この木肌には、後悔と愛着が染み付いている。……彼は毎晩、これを撫でていた」


 九条はその削り器を手に取り、目を閉じた。

『痕跡のレシピ』。

 九条の脳内に、かつての五条龍蔵の「本当の原風景」が浮かび上がる。

 料亭の主として、豪華な食材と煌びやかな器に囲まれていた龍蔵。しかし、彼が死の直前に、全財産を投げ打ってでももう一度だけ味わいたかったものは――。


「……凛。相続執行人として、宣言しろ。……今から私が作るものが、五条龍蔵の『真実の遺言』であると」

「了解したわ、蓮。……皆さん、静かに。これから始まるのは、裁判よりも重い、真実の証明です」


 凛の宣言に、広間は静まり返った。

 九条は、汚れきった削り器を驚くべき手際で研ぎ直し、自ら持ち込んだ最高級の鰹節を引いた。

 シュッ、シュッという心地よい音が、静寂の中に響き渡る。

 その所作は、もはや料理人の域を超え、神聖な儀式のようだった。

 3人のヒロインたちは、それぞれの位置から、その九条の背中を見つめていた。

 28歳のひまりは憧れを、32歳の澪は共鳴を、そして37歳の凛は、かつてパリで見た「光」の復活を確信していた。


 1時間後。

 親族たちの前に出されたのは、あまりにも簡素な、具のない吸い物だった。

 だが、その汁は、部屋の灯りを集めたかのように黄金色に輝いていた。


「な、なんだこれは……ただの出汁じゃないか! これが秘伝のレシピだと!?」

「いいから黙って飲みなさい。……これは、あなたたちが捨て去った『家族の記憶』よ」


 凛に促され、親族たちが恐る恐る口をつける。

 その瞬間、広間に衝撃が走った。


「……っ!?」


 それは、究極の「引き算」だった。

 高級な塩も、複雑な調味料も一切ない。ただ、鰹節と昆布の旨味を極限まで抽出し、雨の日の湿度を計算したかのような、絶妙な温度。

 その味は、彼らが幼い頃、母が病床の龍蔵のために作り、龍蔵が涙を流して喜んだという「卵を産めない鶏の代わりに作った、黄金色の吸い物」の完璧な再現だった。


「……親父、これを……最期にこれを、俺たちと一緒に……」


 欲に目が眩んでいた親族たちの目から、涙が溢れ出した。

 龍蔵が遺した『黄金の雨』とは、秘伝のレシピでも隠し金でもなかった。

 金に心を売る前の、最も貧しく、しかし最も愛し合っていた家族の記憶を、雨の日の静寂の中で分かち合いたかったという、悲痛なまでの願いだったのだ。


「……鑑定終了です。この吸い物こそが、五条龍蔵の真の遺産であると証明されました」


 澪が静かに告げ、ひまりがその様子をタブレットに記録する。

 凛は、混乱した親族たちの間を優雅に歩き、法的書類を差し出した。


「さて、お味はいかがでしたか? この味を忘れないと誓うのであれば、相続の手続きを進めましょう。……さもなければ、この暖簾は私が責任を持って、廃業とさせていただきます」


 凛の冷徹な、しかし慈愛に満ちた言葉に、誰も反論できなかった。


 夕暮れの鎌倉。

 4人は、紫陽花の咲き誇る小道を駅に向かって歩いていた。


「ボス、お疲れ様! いやぁ、今日の凛さんの立ち振る舞い、マジで痺れました。……でも、やっぱり『蓮』呼びは禁止ですよ!」


 ひまりが、九条の腕に自分の細い腕を絡め、頬を寄せる。夕陽に照らされたブロンドが、オレンジ色に輝いている。


「ふふ、ひまりさんは独占欲が強いのね。……でも、蓮の本当の弱さを知っているのは私だけよ」


 凛が九条の隣を歩きながら、妖艶に微笑む。37歳の余裕が、ひまりをわずかに焦らせる。瞳が、茶目っ気たっぷりに九条を見つめた。


「……二人とも、外では慎め。……澪、何か気になることでもあるのか」


 九条が、後ろを歩く澪に問いかける。

 澪は、漆黒の髪を風になびかせ、鎌倉の空を見上げていた。その端正な横顔は、やはりこの世のものとは思えない美しさだった。


「……いえ。……ただ、今日の空も、あの吸い物と同じ、黄金色の雨が降りそうだと、思っただけです」


 九条は、3人の美しきパートナーたちに囲まれ、溜息を吐きながらも、その足取りは確かだった。

 死者の遺した不器用な愛を、一皿の料理で解き放つ。

 その使命がある限り、彼は立ち止まることはできない。

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