第6話 文化祭前日のパニックと夜桜の約束

桜が丘高校の文化祭が開かれる前日、天気予報は朝から晩まで晴れの快晴だと大きく喧伝していた。しかし午後の三時過ぎ、空は急に曇り始め、やがて細かい雨粒が舞い落ちるようになった。


二年A組の教室は、文化祭の準備で大騒ぎの渦に巻かれていた。クラスの出し物であるコーヒースタンドの最終確認をする悠太と雪緒を中心に、十数人の生徒たちがテーブルを並べたり、飾り用の桜の枝を壁に掛けたり、値段表を貼り付けたりと、手忙しく動き回っている。


「雪緒さん、この桜の枝、こっちの壁に掛けるのがいいかな?」

「悠太くん、シュガースプリンクルの箱、もう一箱補充しておかないと?」

「あの、コーヒーカップの数、足りてるか確認して!」


生徒たちの声が飛び交う中、悠太はスタッフのリストを片手に、カップの数を一つ一つ数えていた。「三百個……大丈夫、明日の来場者数なら余裕だ。雪緒、こっちのテーブルの位置、少し左に動かしたらどう?通路が狭くなっちゃうよ」


「うん、そうね」雪緒は手に持っていたポスターを机に置き、悠太の側に寄ってきた。彼女は今日、普段着の代わりに白いブラウスに水色のスカートを着ていて、普段の冷たい印象とは違って、柔らかな雰囲気に包まれていた。「でも、この位置にすると、カウンターの後ろが狭くなって、二人で作業するのが大変じゃない?」


「二人?」悠太は一瞬、目を見開いた。「他のメンバーも手伝ってくれるんだよ」


「そうは言っても、明日の朝一番は準備が大変だから、早く来たら二人だけになる可能性が高いじゃん」雪緒が少し困ったように眉を蹙ると、その様子が可愛らしくて、悠太はつい笑ってしまった。


「笑わないでよ」雪緒は少し不満そうに頬をふくらませると、耳たぶが薄紅色に染まっていた。「それに、明日は私がウェイトレスのコスチュームを着るんだって忘れた?」


「ああ、そうだ!」悠太は頭をたたいた。クラスで話し合った時、雪緒がコーヒースタンドの看板娘として、白いエプロンにリボンをつけたコスチュームを着ることになっていた。「絶対似合うよ。きっと、一番人気になる」


雪緒はその言葉を聞いて、さらに顔を赤らめ、慌てて別の場所に目をやった。「そ、そんなことないよ……」


その時、教室の窓を叩くような音が響いた。生徒の一人が叫んだ。「雨!雨が降ってきたよ!」


教室の中は一瞬、静まり返った。みんなが窓の外を見ると、細かい雨粒が桜の花びらを打ち落としながら、地面に落ちているのが見えた。


「どうしよ……明日の文化祭、雨が続いたら大変だよ」

「コーヒースタンドは屋外だったよね?雨が降ったら、客が来なくなるじゃん」

「天気予報、全然当たらない!」


生徒たちの不安な声が飛び交う中、悠太は深く息を吸って、声を上げた。「大丈夫だ!明日の朝には雨が止むって、天気予報の補足情報で言ってたよ!」


「本当?」

「悠太くん、確か?」


「うん!絶対だ!」悠太は力強く頷いた。実は、彼は朝の天気予報しか見ていなかったのだが、このまま生徒たちが落胆してしまったら、明日の文化祭が台無しになってしまう。「それに、もし雨が降っても、クラスの備品庫に防水シートがあったよね?それを張れば、大丈夫だ!」


「ああ、そうだ!防水シート!」

「悠太くん、助けた!」


生徒たちの表情が一気に明るくなると、悠太は少し安心して吐いた息を漏らした。その隙に、雪緒が彼の側に寄ってきて、小さな声で話しかけた。「嘘つきだね、天気予報の補足情報なんて見てないでしょ?」


悠太は少し照れくさそうに笑った。「バレたか。でも、このままだとみんなが落胆しちゃうだろ?」


「そうね」雪緒は優しく笑って、その笑顔を見た瞬間、悠太の心臓がドキドキと跳ねた。「でも、悠太くんがいるから、安心できる」


その言葉を聞いて、悠太の胸の中には温かい気持ちが広がった。「雪緒さんがいるから、俺も頑張れるよ」


二人が目を合わせて、少し笑った時、教室の後ろからクラス委員長の佐藤が走ってきた。「悠太くん!雪緒さん!大変だ!コーヒーメーカーが故障しちゃった!」


「え?」悠太と雪緒は同時に声を上げた。


二人が慌てて教室の後ろの備品庫に向かうと、クラスの主力のコーヒーメーカーが、コードを抜いたまま、机の上に倒れていた。佐藤が慌ててコードを差し込んでスイッチを押すと、メーカーはピーッという警告音を鳴らすだけで、全く動かない。


「どうしよ……これ、明日の文化祭に使う予定だったんだ」佐藤が焦って目を潤ませると、周りの生徒たちも不安な顔をしている。「新しいのを買う時間もないし、修理するにも、今日は金曜日で、修理屋さんは閉まってるよ」


「落ち着け、佐藤」悠太は深呼吸をして、メーカーの蓋を開けて中を見た。彼は小さい頃から機械が好きで、簡単な故障なら自分で直せるくらいの知識があった。「配線が抜けてるだけかもしれない。雪緒、ペンチとマイナスドライバーを持ってきてくれる?」


「うん、すぐに!」雪緒は慌てて工具箱を取りに行った。


悠太はメーカーの裏蓋を外して、中の配線を確認した。すると、電源の配線が一箇所、抜けているのが見えた。「やった!これだけなら、直せる!」


「本当?」佐藤が喜んで声を上げた。


悠太は雪緒が持ってきた工具を使って、配線を元の位置に戻して固定した。そして、深く息を吸ってスイッチを押した。


ピッという音とともに、メーカーのランプが緑色に点灯し、内部のヒーターが温まる音が鳴り始めた。


「動いた!動いたよ!」生徒たちが喜んで歓声を上げた。


悠太は安心して笑った。その時、彼の手の指が、配線の端の尖った部分に触れてしまった。「ちくしょう!」


「悠太くん!」雪緒が慌てて彼の手を引っ張ってきた。悠太の右手の人差し指には、細かい傷ができて、少し血が滲んでいた。「怪我した!どうしよ、消毒しないと!」


雪緒は慌てて自分のポケットからティッシュを取り出し、悠太の指を優しく拭いた。その時、二人の距離が異様に近くて、悠太は雪緒の髪の香りが鼻に込んできた。彼女の指が柔らかくて、温かかった。


「大丈夫だ、小さい傷だよ」悠太は少し照れくさそうに笑った。


「小さくても、感染したら大変だから」雪緒は真剣な表情で、ティッシュで彼の指を包んだ。「明日の文化祭までに治さないと、コーヒーを作る時に不便だよ」


「雪緒さんが心配してくれるなら、すぐに治るよ」


悠太がそう言うと、雪緒は少し顔を赤らめ、慌てて別の場所に目をやった。「そ、そんなことないよ……」


その時、教室の時計が五時を指した。生徒たちは「今日はここまで!」「明日は朝六時半集合だぞ!」と声をかけ合いながら、鞄を片付けて帰り始めた。


悠太と雪緒は最後まで教室の片付けを手伝い、やっと準備が終わった時、外の雨はもう止んでいた。空は夕暮れに染まり、西の空には、赤い夕日が雲の隙間から顔を出していた。


二人が校門を出ると、桜の木々が並ぶ道には、雨上がりの湿った香りが漂っていた。花びらが地面に散らばっていて、足を踏み入れると、ふわっと柔らかい感触がした。


「今日は、本当にありがとう」雪緒が小さな声で話しかけた。「コーヒーメーカーを直してくれて、みんなを励ましてくれて……」


「雪緒さんがいたから、俺も頑張れたよ」悠太は笑って答えた。「明日の文化祭、きっと大成功するよ」


「うん。きっとね」雪緒は頷いて、その時、彼女が道端に落ちている桜の花びらを拾って、手のひらに乗せた。「雨が止んでよかった。夜空に桜が咲いている姿、とてもきれいだから」


「夜桜?」


「うん。私の家の近くに、桜の公園があるんだ。今夜、満開になるって聞いた」雪緒が少し躊躇したように、悠太の目を見た。「もし、時間があったら……一緒に見に行かない?」


悠太の心臓が一瞬、飛び跳ねた。彼は思わず、声を上げた。「行きたい!絶対に!」


雪緒はその言葉を聞いて、優しく笑った。その笑顔が、夕暮れの光に照らされて、とてもきれいだった。


二人は並んで、桜の道を歩き始めた。雨上がりの空気が清らかで、花びらが風に舞って、二人の肩に優しく降り積もった。


「雪緒さんは、普段から夜桜を見に行くの?」悠太が話しかけた。


「うん。小さい頃から、一人で見に行ってたんだ」雪緒の声が少し寂しげだった。「両親が忙しくて、一緒に出かける機会が少なかったから……でも、一人で見るのも、それはそれできれいだった」


「今後は、俺と一緒に見に行こう」悠太が自然にそう言った。「文化祭が終わった後も、来年の桜の季節も、一緒に見に行く」


雪緒はその言葉を聞いて、足を止めて、悠太の目を見つめた。彼女の瞳の中には、夕日の光と桜の花びらが、星屑のように散らばっていた。「うん。約束ね」


「約束だ」


二人が指を切り合った時、風が吹いて、桜の花びらが二人の周りを舞った。


公園に着いた時、夜空はもう暗くなり、街灯の光が桜の木々を優しく照らしていた。満開の桜が、薄いピンク色の雲のように空に広がり、風が吹くたびに、花びらが雪のように舞い落ちていた。


二人が公園のベンチに座ると、周りには他のカップルや家族の姿が見えたが、悠太と雪緒の間には、誰も入り込めないような、優しい雰囲気が漂っていた。


「きれいだね」雪緒が小さな声で呟いた。


「うん。雪緒さんと一緒に見るから、もっときれいだ」


悠太がそう言うと、雪緒は少し顔を赤らめ、彼の肩に軽く頭を靠らせた。悠太の胸の中には、これまでにない幸福感が広がった。


彼は手のポケットから、雪緒がくれた銀色のコーヒーカップのペンダントを取り出して、手のひらに握りしめた。冷たい金属の触感が、安心感に変わって、彼の心を満たした。


「明日の文化祭、楽しみだな」悠太が呟いた。


「うん。私も、悠太くんと一緒にコーヒーを作るのが、楽しみだ」


雪緒がそう言うと、悠太は彼女の頭を優しく撫でた。風が吹いて、花びらが二人の周りを舞い、街灯の光が二人の影を長く伸ばしていた。


その夜、悠太は雪緒を家の前まで送った。玄関の前で、雪緒が彼に手を振った時、彼女の瞳の中には、桜の花びらと夜空の星が映っていた。


「明日、朝六時半だね。遅れないでね」


「うん。絶対に遅れない。待ってて」


悠太がそう言うと、雪緒は少し笑って、玄関の扉を開けて入った。


悠太が家に帰る道を歩く時、手のひらにはペンダントの冷たい触感が残っていた。彼は胸の中に思った。自分が掲げていた「低欲望学園生活」なんて、もう遠い昔のことだ。綾瀬雪緒と出会って、自分の世界が、こんなにも輝かしいものになるなんて、彼は想像もしていなかった。


翌日の朝、悠太が目を覚ました時、窓の外には、晴れ渡った青い空が広がっていた。


桜が丘高校の文化祭が、今日、始まる。


そして、悠太と雪緒の物語は、この春の日差しの中に、さらに輝かしく続いていく。

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氷山の隣席と距離を置く百の方法 夏目よる (夜) @kiriYuki_01

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