第5話 放課後の補習と落ちる桜の音
文化祭の準備が佳境に入る頃、桜が丘高校の中間試験の日程表が掲示板に貼り出された。
放課後のベルが鳴り終わると、教室の大半の生徒たちがハッスルして帰り始めた。悠太が鞄を片付けようとした時、袖口を軽く引かれる触感がした。
振り返ると、雪緒が机に座ったまま、少し躊躇したような眼差しで彼を見ていた。夕日の光が彼女の髪を金色に染め、睫毛の影が頬に淡く落ちている。
「ねえ、悠太くん」
雪緒の声は小さく、教室の窓から漏れる風の音に紛れそうだった。「私、数学の微分と積分が全然わからなくて……中間試験で赤点を取りそうなんだ」
悠太は一瞬驚いた。クラスで常に上位を占める雪緒が、「わからない」と素直に言うなんて、想像もしていなかった。
「補習、してくれない?」
雪緒がさらに小さな声で付け加えると、耳たぶが薄紅色に染まっていた。「放課後の図書室で、少しだけでいいから」
「もちろんだよ」
悠太は即答した。胸の中には、自分でもわからない嬉しさがふわっと浮かんできた。「いつから始める?」
「今日からでも、大丈夫?」
「うん、図書室で待ってて」
悠太がそう言うと、雪緒の口角がほんのり緩んだ。その笑顔を見た瞬間、悠太の心臓が少し速く鼓動した。
図書室は静かで、古い本の匂いと桜の花びらの香りが混ざっていた。窓辺の机に二人が向かい合って座ると、雪緒が数学のノートを広げた。ノートの字は丁寧で、わからない箇所にはピンクの蛍光ペンで線が引かれている。
「この問題、置換積分のやり方が全然覚えられないんだ」
雪緒が指でノートの問題を指しながら、少し悩んだように眉を蹙る。
悠太は椅子を少し前に引き寄せ、彼女の隣に座ってノートを見る。二人の肩が時折触れ合うたびに、雪緒が少し体を緊張させるのがわかる。
「まず、この変数をtに置き換えるんだよ。例えば……」
悠太は鉛筆を取り、ノートの余白に丁寧に計算式を書き始めた。雪緒は息を潜めて彼の手元を見つめ、まつ毛が細かく揺れていた。
夕日が窓から差し込み、二人のノートに長い影を落とした。図書室の司書さんが静かに本棚の本を整理する音が、時折部屋に響く。
「あ、なるほど! こうすれば簡単に解けるんだね」
雪緒が突然、目を輝かせて叫んだ。その声が静かな図書室に響くと、彼女は慌てて手で口を覆い、耳たぶを赤らめた。「ごめん、大きな声になっちゃった」
「大丈夫だよ、司書さんも笑ってるよ」
悠太がそう言うと、遠くの司書さんが優しく頷いた。雪緒は少し恥ずかしそうに頭を下げ、その隙に悠太が彼女のノートを見た。
ノートの裏側には、小さく桜の花びらの絵が描かれていた。その絵の隣には、細かい文字で「悠太くんの補習 4月15日」と書かれている。
悠太は胸が温かくなった。
補習が終わった頃、夕日はもう西の空に沈み始めていた。二人が図書室を出ると、校舎の裏の小道には桜の花びらが舞い落ちていた。粉雪のような花びらが、二人の肩に優しく降り積もる。
「今日はありがとう。本当に助かった」
雪緒がそう言うと、悠太は笑って答えた。「またわからないことがあったら、いつでも聞いてね」
二人は小道を並んで歩いた。言葉を交わさなくても、気まずいという感覚は全然なかった。桜の花びらが舞い落ちる音が、耳元に優しく響く。
「あのね、悠太くん」
雪緒が突然、小さな声で話しかけてきた。「私、以前は誰にも頼らないで生きていたんだ。だって、頼ったら失望するんじゃないかって思って……」
悠太は彼女の話を静かに聞いていた。
「でも、悠太くんに頼ってみたら、全然そんなことなかった。ありがとう」
雪緒が顔を上げて彼を見つめると、瞳の中には夕日の光が星屑のように散らばっていた。
悠太は心臓がドキドキと跳ねていた。彼は、自分が雪緒の心の防衛線を少しずつ溶かしていることを、確かに感じた。
「雪緒さんが頼ってくれるなら、いつでもここにいるよ」
悠太がそう言うと、雪緒は少し頷き、口角に優しい笑顔を浮かべた。
その時、空から舞い落ちる桜の花びらが、二人の間を優しく通り過ぎた。
放課後の小道には、花びらの香りと、二人の心の鼓動が、優しく混ざり合っていた。
翌日、悠太が教室に入ると、自分の机の上に牛乳とハードキャンディが置かれていた。キャンディの袋には、小さなメモが貼られている。
「補習のお礼。ありがとう。——雪緒」
悠太はメモを手に取り、胸の中に温かい気持ちが広がっていくのを感じた。
窓の外には、桜の花びらが依然として舞い落ちていた。
そして、彼と雪緒の物語は、この春の風の中に、さらに優しく続いていく
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