第2話 三ツ星の孤独(オリオンのベルト)
灰色の霧の中、結鳴は「巨大な門」の前で立ち尽くす男に出会う。
男は作業着姿で酷く泥に汚れ、門を通ろうとせず 何かを必死に探しているようだった。
結鳴の存在に気付いた男は、迷わず駆け寄り縋り付きます。
「娘の誕生日に、何も渡せなかった、謝らなきゃいけないんだ」
「謝る? それは君が、娘さんをこの先ずっと一人にするために使う言葉か?」
(不器用な父親の魂を前に、結鳴の胸の奥で、苦い記憶が逆流する。謝りたかったのは、自分も同じだ。許しを請うことで、自分の罪を軽くしたかった。だが、結はもういない。謝罪を受け取るべき主のいない言葉が、どれほど行き場を失い、腐敗していくかを彼は知っている。だからこそ、この男の『未練』が、鏡に映った自分を見ているようで吐き気がした)
すると、傍らに立つ老人が、静かに空の星座を指さした。
「あの形が見えるかい?人々はあれを狩人(オリオン)と呼ぶが、ここでの意味は少し違う。あれは巨大な砂時計だ、上が『過去』下が『未来』そして、砂が通り抜ける、あの三ツ星の並ぶくびれこそが、残酷なまでに一瞬の『現在』だ」
そう言うと次は、スッと目線を下げ、未だウロウロと何かを探し続ける父親の方を指さす。
「死者は過去を脱ぎ捨てて未来へ流れるもんだが、時折あの『現在』に引っかかり動けなくなる魂がある。あの男にとっての『現在』は、娘に渡せなかった何か…なのだろう。あそこで砂が詰まれば、彼の時間は永遠に滞り続ける」
老人が語る砂時計の理を聞きながら、結鳴はそれが「真実か老人の妄想か」など、どうでもよかった。
誰かを理解しようとすることは、その誰かを失った時の痛みを予約することだ。
ただ、これ以上 結という名の空白を埋めようとする言葉を聞きたくなかった。
「あった!こ…これだ!ここにメッセージを書いたんだ。それを届けるまでは どこにも行けないんだよ…」
男の手に握られていたのは、事故の衝撃でボロボロになった一冊の絵本(星の王子さま)だった。
泥まみれのそれは、この境界では、ただの「灰色の物体」に過ぎない。しかし面を通した時だけ、その本の表紙から「金色の光」が溢れ出しているのが見える。
父親の「愛の残骸」である「星の王子さま」を見つめるとき、結鳴の脳裏に、かつての自分の「無力」が過ぎる。
「目に見えないものが、大切…か」
(こいつも、老人も、あいつ(結)も、結局は自分の行きたいところに勝手に行くだけだ)
結鳴は面の下で、自嘲気味に口角を上げた。
目に見えない悪意が、どれほど容易く、目に見える幸福を踏躙(じゅうりん)するかを、彼は知っている。
父親が、愛おしそうに娘の名を呼ぶ、その響さえ結鳴には毒を孕んだ礫(つぶて)のように聞こえた。
――彼には輝かしい未来があるの。
――あなたの存在が、彼を縛り、苦しめている事に気づかない?
――わかったら早く彼の前から消えなさいよ。
あの女(社長の娘)が、結に投げつけた冷酷な言葉。
結鳴は、自分の「期待される未来」が、結を追い詰める凶器になったのだと、信じて疑わないのだ。
愛が人を殺す理由になる。
自分が結を愛していたという事実そのものが、彼女から空を奪った。だからこそ彼は面を被り、個体としての「愛」を捨て、無機質な「器」としてこの境界を歩こうと決意したのだ。
結鳴は、境界に咲く「愛の残骸(光る花)」を睨みつける。
(これがどんなに美しく見えようと、その根元には誰かの絶望が埋まっている。)
老人が彼を見つめる視線に、僅かな沈黙が混じる。
結鳴が信じている「真実」が、いかに浅はかで残酷な欺瞞(ぎまん)の上に成り立っているか。境界の主である老人は、その「本当の毒」を知りながら、まだ何も語らない。
結鳴は男を突き放すように門へと促しながら、「金色の光」だけを指先で すくい取り、現世(セピア色の雑踏)に居る 男の娘の元へ向かう。
病院の椅子で、父親の形見である 泥まみれの絵本を抱きしめ、声を押し殺して震える少女。
結鳴はその姿を、セピア色の境界からじっと見つめる。
泣き方も知らない幼い肩の震えが、あの日、結を失った自分の背中と重なった。誰もいない部屋で、ただ冷たくなっていく記憶だけを握りしめていた、あの夜の自分と……
そっと、少女の肩に、父の最期の願いである「金色の光」を落とす。
その瞬間。
結鳴の胸の奥で、定義できない感情が爆ぜた。
(慈しみか?憐れみか?それとも……)
自分が、自分のせいで奪ってしまった「結との未来」目の前の少女に、その欠片を分け与えることは、自分自身の欠落を際立たせるだけだった。
「…ふざけるな!」
誰に向けたのかもわからない毒づきが、面の下で虚しく消える。
光を受け取った少女が、何かを感じたように顔を上げた時、結鳴は、逃げるように背を向けた。
彼女の瞳に、今の自分を映してはならない。
自分はもう、誰かと想いを分かち合う人間ではないのだ。
感情に名前がついてしまう前に、彼は意識を「無」へと引き戻す。
「痛い」面が鳴いた。
走馬灯のように、新しく刻まれた「ひび」は、他者の愛に触れた代償か、それとも捨てきれない「自分」が上げた悲鳴か…
少女に光を届け、境界へと戻ってきた結鳴。彼の肩は、本人も気づかないほど僅かに、疲弊で落ちている。
老人は、砂時計の傍らで動かず、結鳴が戻るのを「知っていた」かのように待っています。
「……届けてきたようだね。形なき贈り物を。そして、君自身も受け取ってきたようだ。自分でも持て余すほどの、重い何かを」
老人の声は、波一つない水面のように穏やかで、それゆえに結鳴の心の深淵まで透かしてくる。
結鳴は、老人の視線が自分の「名前の付けられない感情」に触れようとするのを、肌が粟立つような嫌悪感と共に察知します。
問いかけに応じれば、この胸のざわめきに「名前」を与えられてしまう。
少女の涙に自分を重ねた無様さを、救えなかった結への未練を、老人の賢しらな言葉で定義されたくなかった。
漆黒の面の奥、固く閉ざした唇が僅かに震えるのを悟られないよう、彼はゆっくりと顔を伏せた。
沈黙を破るのは、巨大な砂時計が時を刻む、微かな、けれど確実な砂の音だけ。
「……ふん。今はそれでいい」
老人はそれ以上追及せず、ただ砂時計を見上げる。
顔を伏せたままの結鳴の視界の端で、砂時計のくびれ――「現在」を象徴する三つ星の場所で、また一粒、死者の涙の色をした砂が、過去から未来へと滑り落ちていくのが見えた。
結鳴は、伏せた顔を上げられないまま、自分の中に澱(おり)のように溜まったこの感情が、いつか砂となって流れ落ちる日を、心のどこかで恐れていた。
空の鳴音(そらのめいおん) 蒼珀 そら @sora_aohaku
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