空の鳴音(そらのめいおん)

蒼珀 そら

第1話 愛の残骸と、漆黒の面

​​肺を焼くような氷の空気が、ここが地獄でも天国でもないことを教えていた。

痛みは、どこにもない。


「⋯ここは?」

「あぁ、俺⋯。」


ふと⋯何かを確認するように息を吐き

肺いっぱいに冷たい空気を吸い込むと

愛する人の名前を呼んだ。


「…結、……結!」


声が枯れるまで、彼はその名を呼び続けた。

視界を埋め尽くすのは、重苦しく停滞した灰色の霧。上下の感覚すら曖昧なその場所で、彼は彼女の面影を探して彷徨い歩く。


​(謝らなきゃいけないんだ。そうすれば、またあの温もりに触れる許しがもらえるはずだから)


けれど、どれだけ歩いても、どれだけ喉を震わせても、返ってくるのは自分の声の虚無な反響だけだった。愛する人がいるはずの場所には、愛も、憎しみも、光も、影もない。ただ救いのない「無」が広がっているだけだった。


やがて足が折れるように、彼はその場に崩れ落ちた。指先を灰色の地面に食い込ませ、震えると息を漏らしながら、彼は深い眠り⋯あるいは意識の混濁へと沈んでいく。







⋯指先に、固い感触があった。

どれくらい眠っていたのか。ゆっくりと瞼を持ち上げた彼の目に飛び込んできたのは、地面に横たわる、長く尖った耳を持つ漆黒の面だった。


「こ⋯これ、は」


触れれば、芯まで凍りつくような冷たさが指から伝わってくる。重くて、硬くて、ひどく無機質な神の顔。


彼は、その面を抱きかかえるようにして起き上がった。

鏡のように磨かれた黒い面に、自分の弱りきった顔が映る。愛を失い、死にも見放された、中身のない空っぽな男の顔だ。


(これを被れば、消えられるだろうか⋯)


彼は吸い込まれるようにその面を自身の顔へと近づけた。


「これで、いい」


震える指で、彼はその面を顔に当てた。その瞬間、世界の霧が、まるで作り物だったのように、音もなく晴れていく。


彼が見たのは、無数の半透明な人影だった。彼ら(彼女ら)は一様に同じ方向へ、目的もなく歩いていく。そこに感情はなく、ただただ、淡い光を放ちながら進んでいく。


「彼女、だ……!」


彼は人影をかき分けるように、必死に探した。あの笑顔に、あの声に、もう一度会いたい。守れなかった事も、勝手に後を追ってきたことも、すべてを謝りたい。そしてもう一度⋯もう一度だけ⋯。


人混みをぬって、必死に手を伸ばす。しかし、半透明な人影たちは、進むにつれて少しずつ、その形を変えていく。


持っていた荷物が⋯


身につけていた服が⋯


メガネが⋯


ネックレスが⋯


ピアスが⋯⋯。




すべての「目に見えるもの」が、地面にポロポロと落ちていく。彼らの形は次第に丸くなり、個性を失い、やがては光の粒へと変わっていく。


「⋯⋯⋯⋯あぁ。いやだ」


彼の目の前で、一つの光の粒が、霧のなかに溶けて消えた。


その粒が、かつて自分を愛し、自分がすべてを捧げた、あの娘だったと、彼は直感的に理解した。



どんなに愛しても、失うことからは逃れられない。愛した証さえ、ここには残らない。


面の下で、彼の唇が、深く震えていた。


どのくらいの時間が経ったのだろうか⋯彼の耳にぼんやりと声が聞こえた。


「君は⋯⋯? まだ生きてるじゃないか! ここに居ちゃいけない!」


声は、すぐ耳元で弾けた。

立ち上がる気力など、とうの昔に霧に溶かした。


返事をする代わりに、彼は重いまぶたを閉じる。

自分という存在が、このまま地面に染み込んで、早く消えてしまえばいいと願った。


その時だ。目に見えない巨大な掌に掬い上げられたかのように、彼の身体がふわりと宙に浮いた。


「な⋯⋯っ」


驚きに目を見開く。あっと言う間に視線が数メートル高くなった。そこから彼が見下ろしたものは⋯。


地面に散らばる、無数の「愛の残骸」だった。死者たちが落としていった荷物や服やネックレス。それらはまるで、星座のように、特定の「意味」を持って配置されていたのだ。

さらに、彼の目に映ったのは、死者たちが向かう先にある「巨大な門」。門の横には、何を図るというのか、音もなく砂が落ち続ける巨大な砂時計があり、その砂の一粒一粒が、死者たちが生前流した涙と同じ色に輝いている。


そして、最も彼を驚かせたのは、自分のすぐ横に浮かぶ、身体が透けて消えかかっている老人の姿だった。



「よかった⋯⋯。私の『形』が消える前に、君に会えて。」直接心に語りかけるように、とても穏やかに話す老人。


「見てごらん。君が探していた彼女も、この門を通っていった。彼女が残していったものは、あそこにある」


老人が指さしたのは、地面に落ちた、一対の小さなピアスの横に咲く、形を持たない、淡い光を放つ一輪の花だった。


「見えるかい?あれは形ある物質ではない。カノジョが最後に君を想った、目に見えない『愛』そのものだ。君が面を被ったからこそ、あれが見える」


彼は、息を呑んだ。形ある彼女は失われた。けれど、彼女が残した「見えないもの」は、今もそこに、静かに息づいている。


「君には、やるべきことがあるはずだ。愛を、『無』に還さないために。」


指先が、その淡い光を放つ花に触れた。その瞬間、轟音と共に彼の意識に「記憶」が逆流する。それは彼の知る記憶ではない。彼女の魂が刻んでいた、最期の数秒間の光景。


ビルの屋上。


冷たい風。


彼はそれまで、彼女が泣きながら、あるいは虚無の中で、自ら足を踏み外したのだと信じて疑わなかった。だが、指先から流れ込んできたのは、驚くほど澄み渡った、純粋な「意志」だった。


(あぁ、違う⋯⋯)


彼女の目に映っていたのは、アスファルトの暗闇ではなかった。

彼女は、何かに導かれるように、あるいは何物からも自由になるために、空の向こうにある眩いほどの「何か」を見つめていた。


彼女にとってその一歩は、終わりではなく、待ち望んだ始まりだったのだ。彼女は絶望に背中を押されたのではない。自らの希望を抱いて、光の中へ羽ばたいたのだ。


「そんな⋯⋯嘘だ⋯⋯」



指先から伝わる彼女の「幸福」が、彼を切刻む。自分がどれほど彼女の絶望を共有しようと、後を追おうと、彼女の魂は最初から、彼が想像もできないほど遠くへ、一人で旅立っていた。


彼女を救えなかったのではない。彼女は、彼という「愛」さえも脱ぎ捨てて、自由になることを選んだ。


面の下で、彼の瞳から、熱い雫がこぼれ落ちた。彼女が幸せだったという真実が、


彼に生きる意味を与えてきた「悲劇のヒーロー」としての彼さえも否定していく。


「君は、笑っていたのか⋯⋯僕を、置いていく時に」







彼の輪郭が、足元から灰色の霧に混じり始めた。

「彼女を救いたい」「彼女のために死ぬ」という、

自分を支えていた唯一の物語が嘘だと知った今、彼をこの世に繋ぎ止める重石は何一つない。


「あぁ⋯⋯そうか。俺は、何も持っていなかったんだ」


指先が透け、足元の感覚が消えていく。身体が「無」へと還っていく安堵感。


だがその時、顔を覆う面が、突如として猛烈な力で彼の頭蓋を締め付けた。


「ぐあ⋯⋯っ!!」


逃れようのない圧迫感。石の面が皮膚に食い込み、彼の意識を無理やりこの世界に繋ぎ止める。頭の芯に、冷徹で、地響きのような声が直接響き渡った。


『ならば、お前はこれからどうする?』

それは面を通して聞こえる「世界の意志」だった。

『すべて虚無だと知った。お前の愛も、お前の絶望も、あの女にとっては無意味な重荷に過ぎなかった。それを知ってなお、お前は誰かを導くというのか?誰の笑顔も見られない、誰からも愛されないこの場所で』


彼の口から、血の混じった鳴咽が漏れる。面が、彼の「弱さ」を、そして「愛されたいという渇望」を容赦なく抉り出していく。


『答えろ。消えてなくなるのか。それとも、すべてを隠して地獄を歩くか』


彼は、崩れ行く膝を震わせ、かろうじて灰色の地面を掴んだ。


彼女が「希望」を見て飛んだのなら、その先にあったはずの「光」を、自分が見誤るわけにはいかない。


彼女が自由になったのなら、自分は彼女が脱ぎ捨てた「この世の痛み」を、すべて引き受ける器になるしかない。


「⋯⋯隠して、やる」


ひび割れた声で、結鳴は呟いた。


「俺が⋯俺でいなくなるくらいなら。この面の下に、全部隠して、迷える者を導いてやる。彼女が見た希望が、間違いじゃなかったと証明するために」




その言葉が落ちた瞬間、身体の消失が止まった。代わりに、面の表面に、走馬灯のような「ひび割れ」が一つ、深く刻まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る