はじまり
視界を埋め尽くした白光の中で、僕は「音」を聞いた。 それは何億もの砂時計が一度に砕け散るような、あるいは、誰かがずっと堪えていた啜り泣きのような音だった。
僕と美波の唇が重なった瞬間、世界という名のシステムは、その限界を告げた。 99回のループ。合計三百年に及ぶ「初恋」の蓄積。 僕の中にあった記憶のダムが決壊し、同時に、美波の中に眠っていた99人分の「一条美波」が、今の彼女へと流れ込んでいく。
「……あ、あぁ……っ」
美波の喉から、声にならない悲鳴が漏れる。 彼女は僕の腕の中で激しく震えていた。その脳裏に、僕がたった一人で背負ってきた地獄と、そして何よりも眩い極彩色の幸福が、濁流となって押し寄せているのだ。
大学のベンチで初めて言葉を交わしたあの日。 雨のバス停で、一つの傘を分け合ったあの午後。 プロポーズをした夜の、震える彼女の指先。 そして、リセットの光に飲み込まれる直前の、絶望的な彼女の瞳。
そのすべてを、今の美波が「思い出した」。
「ハルト、くん……ハルトくん……!」
彼女が僕の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「ごめんね……ごめんね、ハルトくん。私だけ、何も知らずに……。あなたを、こんなに長い間、一人にして……!」
「いいんだ、美波。君が笑っていてくれるなら、僕は何度でも、あの春の日に戻れた。……でも、もう終わりみたいだ」
周囲を見渡すと、そこにはもはや公園も、夜空も、花火もなかった。 あるのは、どこまでも続く純白の空間と、宙に浮く無数の「記憶の断片」だけだ。 映画のフィルムのように、僕たちの過去が空中を舞っている。
その中心で、僕たちは二人きりだった。
「……ねえ、ハルトくん。神様が言ったこと、本当なの?」 美波が涙に濡れた顔を上げ、僕を見つめる。
「私たちが愛し合ったら、私たちは世界から消えちゃうの?」
「……ああ。この100回目は、円環の終着点なんだ。結ばれれば消滅し、結ばれなければ、君は僕を忘れて『新しい明日』を生きることができる」
僕は彼女の頬を撫でた。 光の粒子に変わりつつある彼女の肌は、驚くほど温かかった。
「美波。僕は、君に生きてほしい。僕のことをすべて忘れて、3月31日の次にある、4月1日を歩いてほしいんだ。三百年間、一度も訪れなかった『明日』を」
「……そんなの、嫌だよ」 美波が首を振った。
「ハルトくんのいない明日なんて、私には意味がない。300年分のあなたの愛を思い出しちゃったのに、それを全部捨てて、知らない誰かと笑うなんて……そんなの、私じゃない」
「でも、消えてしまったら、何もなくなるんだ。僕たちが愛し合った証も、今ここで話している言葉も、全部……!」
「――なくならないよ」 美波が、力強く僕の手を握り返した。 その瞳には、かつてのどのループでも見たことがないような、凛とした光が宿っていた。
「ハルトくん。この世界が私たちの『恋』を許さないっていうなら、私たちは、この『初恋』にさよならを言わなきゃいけないんだと思う」
「さよならを……?」
「そう。100回繰り返した、この『特別な恋』に。……ねえ、ハルトくん。私たちは、運命に愛されすぎちゃったんだよ。だから、運命から自由にならなきゃ」
美波はそう言うと、空中を舞う「記憶の断片」の一つに手を伸ばした。 それは、第一章で彼女が描いた「青い空」の絵だった。
「このループを、私たちの心ごと、世界に返そう。……私たちが消滅するんじゃなくて、この『100回目の物語』そのものを終わらせるの」
彼女が何を言おうとしているのか、僕には直感で理解できた。 僕たちは、あまりにも「二人だけの世界」に固執しすぎたのかもしれない。 彼女を救いたいという僕の執念と、僕を愛したいという彼女の祈りが、この三百年間の歪みを生んできたのだ。
「……美波。もし、ループを断ち切って、普通の人間として生まれ変わることができても、僕たちは他人になるかもしれない。二度と、出会えないかもしれない」
「それでもいい」
美波は微笑んだ。
「もしまた会えたら、その時はそれが『101回目』じゃなくて、本当の『1回目』になるでしょう? 記憶なんてなくても、私はまた、あなたを見つける自信があるよ」
僕は、彼女の強さに打たれた。三百年間、僕は彼女を守っているつもりでいた。けれど、本当に僕を救おうとしていたのは、いつだって彼女の方だったのだ。
「わかった。……さよならを言おう。僕たちの、この長すぎた初恋に」
僕たちは二人で、その「青い空」の絵を抱きしめた。 すると、周囲に散らばっていた無数の記憶たちが、吸い寄せられるように僕たちの元へ集まってきた。 三百年分の、喜び、悲しみ、怒り、慈しみ。 それらすべてが、眩い純白の光へと昇華されていく。
「さよなら、ハルトくん。私を見つけてくれて、ありがとう」
「さよなら、美波。……愛している。ずっと、ずっと」
最後の瞬間、僕は彼女を強く抱きしめた。 体温が混ざり合い、意識が溶けていく。 3月31日の23時59分59秒。 時計の針が、三百年ぶりに、その先の「1秒」へと踏み出した――。
四月。 井の頭公園の桜は、すっかり葉桜に変わっていた。 アスファルトを白く染めていた花びらはもうなく、代わりに若々しい新緑の匂いが風に乗って運ばれてくる。
瀬戸ハルトは、ベンチに座って、一冊の本を読んでいた。 何かが欠けているような、けれど不思議と清々しい、穏やかな午後だ。 彼には、特定の記憶がない。 なぜ自分がこの公園に来たのか、なぜ「300」という数字に妙な愛着を感じるのか、自分でも説明ができなかった。
ふと、風が強く吹いた。
「あ……っ」
背後で、誰かの声がした。 振り返ると、一人の女性が、散らばった書類を慌てて拾い集めているのが見えた。 白いワンピースに、ベージュのカーディガン。 彼女は、風に舞いそうになった一枚の画用紙を必死に押さえようとしていた。
ハルトは、吸い寄せられるように立ち上がった。 体が、勝手に動いた。 彼の手は、空中で鮮やかにその紙を掴み取った。
「はい。……大丈夫ですか?」
差し出された紙には、まだ描きかけの、けれど力強い「青い空」が描かれていた。 それを受け取ろうとした女性の手が、止まる。
彼女は顔を上げ、ハルトの目を見つめた。 その大きな瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。 彼女自身、なぜ自分が泣きそうになっているのか、分かっていないようだった。
「……ありがとうございます。あの、私……」
「……」
「なんだか、変なんです。あなたに、ずっと……ずっと昔に、お会いしたことがあるような気がして」
ハルトは、胸の奥が熱くなるのを感じた。 記憶はない。約束も、物語も、すべてはあの白い光の中に置いてきたはずだ。 けれど、彼の魂が、かつてないほど激しく脈打っている。
「……僕もです。不思議ですね」
ハルトは、自分でも驚くほど自然に、彼女に微笑みかけた。
「……もしよろしければ、お名前を伺ってもいいですか?」
女性は、零れそうになった涙を指で拭い、太陽のような笑顔で答えた。
「――一条、と言います。一条美波です」
ハルトは、その名前の響きを、まるで生まれて初めて聞く言葉のように大切に噛み締め、そして口にした。
「はじめまして、美波さん。……いい天気ですね」
それは、300年と1ヶ月を経て、ようやく辿り着いた、本当の「初めまして」だった。 桜の木々の間を、新しい季節の風が吹き抜けていく。 二人の間に流れる時間は、もう二度と巻き戻ることなく、輝かしい「明日」へと続いていた。
さよなら、僕の100回目の初恋。 王堕王 @oosoo
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