恋
運命というのは、皮肉なほどに「脚本」通りに進もうとする性質があるらしい。
六月。梅雨の湿り気が、僕の脳内に澱(おり)のように溜まった記憶を呼び覚ます。 午後三時。大学の講義が終わる時間だ。空は朝から分厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
(あと三分で、雨が降る)
僕は知っている。この雨は激しい夕立になり、一時間ほど街を麻痺させる。 これまでのループで、僕は何度もこの雨を利用してきた。傘を持っていない彼女を駅まで送り、相合傘という名の魔法を使って、二人の距離を縮めてきたのだ。
けれど、今回は違う。 僕はあらかじめ折り畳み傘を鞄の奥底にしまい込み、雨が降り出す前に学食の隅に身を隠した。彼女と会わないために。彼女を雨宿りに誘わないために。
しかし、視界の端に「白」が揺れた。 白いワンピース。六月の湿った風に、彼女の髪がなびいている。 美波が、中庭のベンチで熱心に筆を動かしていた。スケッチブックに描かれているのは、雨が降る直前の、どんよりとした紫陽花。
「……バカだな、降るって分かっているのに」
独り言が、苦く響く。 案の定、一粒の巨大な雫がコンクリートを叩いたのを合図に、バケツをひっくり返したような豪雨が降り注いだ。
「きゃっ!」
美波が慌ててスケッチブックを抱え、軒下へと走り出す。 その先にあるのは、僕が潜んでいる学食の入り口だった。 逃げ場はない。僕は観念して、彼女が飛び込んでくるのを待った。
「はぁ、びっくりした……。……あれ? ハルトさん?」
肩を濡らした彼女が、僕を見て目を丸くする。 その瞳には、一週間前に僕が突き放した時の傷痕がまだ微かに残っている。けれど、彼女はそれ以上に、僕に再会できた喜びを隠しきれないようだった。
「……また、君か。君は雨が降る予報も見てないのか」
「見ました。でも、どうしてもあの紫陽花の『今』の色を描きたくて。……ハルトさんは、傘、持ってるんですよね?」
僕は黙って、鞄から折り畳み傘を取り出した。
「持ってる。……これ、貸すよ。僕はまだここで勉強していくから、君は先に帰りな」
「嘘」
「えっ?」
美波が、僕の目をまっすぐに見つめた。
「ハルトさん、今、嘘つきましたよね。勉強するなんて。……さっきまで、ずっと時計を気にして、誰かから逃げるみたいにキョロキョロしてた。私、見てたんですから」
彼女の観察眼は、僕が思っている以上に鋭くなっている。 いや、違う。彼女の中に眠る「99回分の記憶」が、僕の嘘を本能的に見抜いているのだ。
「……一緒に、入りませんか」 彼女が、自分の肩に触れながら小さく呟く。
「これじゃ、風邪ひいちゃいます」
結局、僕は拒むことができなかった。 一つの傘の下、肩が触れ合う距離で歩く。 雨音だけが周囲の音を消し去り、僕たちを世界から切り離された二人だけの空間に閉じ込める。 これだ。この感覚。 何度も繰り返した、甘くて痛いデジャヴ。
「ねえ、ハルトさん。変なこと聞いてもいいですか?」 駅までの道すがら、彼女が静かに口を開いた。
「……なんだよ」
「ハルトさんは、私の好きな食べ物、知ってますか?」
僕は足を止めそうになった。
「知るわけないだろう。会ったばかりだ」
「……トマトのハチミツ漬け、ですよね? それと、少し苦いキャラメルマキアート」
心臓が、跳ねるどころか、一度止まった。 それは彼女の好物だ。それも、僕が第30回目くらいのループで、彼女と一緒に試行錯誤して見つけた「世界で一番好きな組み合わせ」だった。
「どうして、それを……」
「分からないんです。でも、昨日、夢でハルトさんが私にそれを食べさせてくれてたんです。ハルトさんはすごく優しく笑ってて……。私、起きた時に、枕が濡れるくらい泣いてました」
美波が、僕のコートの袖をギュッと掴んだ。
「ハルトさん、あなたは誰なんですか? 私は、誰なんですか? どうして初めて会ったはずなのに、あなたの手の温かさを知っているの?」
世界が、微かに「バグ」を起こした。 ふと見上げた街路樹の葉が、一瞬だけデジタルノイズのように乱れ、すぐに元に戻る。 崩壊の予兆だ。 彼女が思い出す速度が、僕が拒絶する速度を上回ろうとしている。
「……君の勘違いだと言っただろう。それは、ただのデジャヴだ。誰にでもある」
僕は冷たく突き放し、彼女の手を振り払おうとした。 けれど、その時、美波が僕の胸に飛び込んできた。
「嘘をつかないで! ……私を、そんな悲しい目で見ないで!」
彼女の温もりが、雨の冷たさを溶かしていく。 僕は、彼女を突き飛ばすべきだった。罵倒し、嫌われ、二度と会わないように仕向けるべきだった。 けれど、腕の中に収まる彼女の震えを感じた瞬間、僕の三百年の理性が、砂の城のように崩れ去った。
僕は、彼女の細い肩を抱き寄せた。 傘が傾き、僕の左肩が雨に濡れる。けれど、そんなことはどうでもよかった。 「……ごめん。ごめんな、美波」
僕は、彼女の耳元で囁いた。 それが、100回目のループで初めて口にした、心からの言葉だった。
その日を境に、僕たちは「恋人」のような時間を過ごし始めた。 いや、それは正確には恋人ではない。 死刑囚が執行直前に与えられた、最後の晩餐のような、あまりにも儚く、あまりにも美しい猶予期間だった。
僕たちは、過去のループで行った場所をなぞるように旅をした。 横浜の夜景、江ノ島の波打ち際、吉祥寺の路地裏。 僕が「次はここに行こう」と言わなくても、美波が「次はあそこがいい」と指差す場所は、すべて僕たちがかつて愛を語り合った場所だった。
彼女の記憶は、日を追うごとに鮮明になっていった。
「ねえ、ハルトくん。ここのアイス、前はもっと甘かった気がする」
「ハルトくん、私、このベンチであなたに告白したことがある気がするの」
彼女が記憶を取り戻すたびに、世界の「崩壊」は加速した。 ある日、公園を歩いていると、背景にあるビルが一瞬だけ消え、真っ白な空間が露出した。 またある日は、時計の針が逆回転を始め、空の太陽が東から西へと猛スピードで沈んでいった。
世界が、僕たちを排除しようとしている。 100回という試行回数を重ね、ついにシステムの許容範囲を超えてしまったのだ。
「……ねえ、ハルトくん。本当のことを教えて」
七月の終わり。花火大会の喧騒から離れた、高台の公園。 浴衣姿の美波が、夜空に咲く大輪の火花を見上げながら言った。 彼女の体は、時折、蛍のように淡く透けて見えるようになっていた。
「私たちは、何度も会っているんでしょう? これが、初めてじゃないんでしょう?」
僕は、もう隠し通せないことを悟った。
「……ああ。100回目だ、美波。これが、100回目の僕たちの夏だ」
僕は、彼女にすべてを話した。 ループのこと。彼女が僕を愛するたびに世界がリセットされてきたこと。 そして、この100回目が終われば、僕たちは世界から消えてしまうこと。
「……そう、だったんだ」 美波は驚かなかった。ただ、納得したように優しく微笑んだ。
「やっぱりね。私、ずっと不思議だったの。どうしてハルトくんのことを見るだけで、こんなに胸が痛くて、でも幸せで、涙が出てくるのか」
「ごめん。僕のせいで、君をこんな運命に巻き込んで」
「謝らないで。……私ね、今、すごく幸せだよ」
彼女は僕の手をとり、自分の胸に当てた。 そこには、確かな鼓動があった。
「100回も私を見つけてくれて、100回も私を愛してくれた。そんな人、世界中のどこを探したっていない。……ねえ、ハルトくん。最後が『消滅』だとしても、私はあなたを愛したことを後悔しないよ」
「美波……だめだ。愛してると言ってはいけない。それを口にしたら、本当に終わってしまう」
世界の崩壊が、物理的な揺れとなって僕たちを襲う。 地面が、まるで水面のように波打ち始めた。夜空の星々が、糸の切れたビーズのようにボロボロと落ちていく。
「ハルトくん、聞いて。私はね、生きたいんじゃない。……あなたと一緒にいたいの」
美波の体が、光の粒子となって霧散し始める。 100回目の結末。 それは、リセットでも継続でもなく、完全な無への帰還。
「さよならは、言わないよ。……だって、これは私の100回目の、最高の初恋なんだから」
彼女の顔が近づく。 僕はそれを拒むことができなかった。 唇が重なる。 その瞬間、僕たちの脳内に、300年分の、99回分の記憶が、怒涛の濁流となって流れ込んできた。
笑い合った日々。 喧嘩した夜。 共に老いた未来。 若くして死別した過去。
そのすべてが、今のこの一瞬のキスに凝縮され、そして――。
世界が、真っ白な光に包まれた。
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