さよなら、僕の100回目の初恋。

王堕王

 世界は、あまりにも鮮やかな既視感に満ちていた。


 井の頭公園。三月下旬の午後二時。 空の色は、まるで薄めたシアンを塗り広げたような、頼りないほどに透き通った青だ。微かに湿り気を帯びた風が、満開を過ぎたソメイヨシノの枝を揺らす。ひらひらと、あるいは狂おしく舞い散る花びらは、アスファルトの上に白い屍を積み上げている。


 僕は、その公園のベンチに座り、腕時計の秒針をじっと見つめていた。 チック、タック、チック、タック。 正確に時を刻むその音だけが、僕が「正しい世界」に存在している唯一の証拠だった。


(あと、十秒)


 僕は、まだ見ぬ――いや、数えきれないほど見てきた――彼女の姿を脳裏に描く。 彼女は、公園の入り口にある売店で、甘さ控えめのカフェラテを買うはずだ。それから、少しだけ迷ったような足取りで池のほとりに向かい、僕が今座っているベンチの横を通り過ぎる。


 五、四、三、二、一。


「……あ」


 背後から、期待通りの、けれど何度聞いても僕の心臓を素手で握り潰すような、清らかな声が聞こえた。 振り返ると、そこには一条美波(いちじょう みなみ)が立っていた。 白いコットンワンピース。ベージュのカーディガン。手には使い古されたクロッキー帳。そして、僕が累計三百年という歳月をかけて愛し続けてきた、その瞳。


 風が、僕の計算よりも少しだけ強く吹いた。 彼女の細い肩が震え、手から一枚の画用紙が零れ落ちる。


 僕は椅子から立ち上がると、それが地面に触れるより早く、指先で空気を掬うようにして掴み取った。 指先に触れる紙の質感。冷たい春の空気。彼女の香水の、仄かな石鹸の匂い。 それらすべてが、僕の脳内で99層に重なり合った記憶と合致し、火花を散らす。


「……これ、君の?」


 僕は、努めて平坦な声を出す。 彼女は驚いたように目を丸くし、それから頬を微かに染めて、僕の手元にある絵を見た。


「あ、はい……! すみません、ありがとうございます」


「いいよ。……綺麗だね、この空」


 画用紙には、パステルで描かれた空が広がっていた。今の本物の空よりも、ずっと青くて、どこか切実な青。 美波は、僕の言葉に少し照れくさそうに笑った。 その笑顔は、第4回目のループで見せてくれたものと同じで、第67回目のループで僕に永遠を誓った時のものと同じだった。


 けれど、彼女は僕を知らない。 彼女にとって、僕は今日この瞬間に偶然居合わせた、少しだけ手先の器用な見知らぬ青年でしかない。


「あの……」


  彼女が、何かを言いかけ、躊躇うように視線を泳がせる。


「何か?」


「いえ。なんだか、不思議な感覚がして。……私たち、どこかでお会いしたこと、ありませんか?」


 心臓が、早鐘を打つ。 これは、これまでの99回にはなかった反応だ。 いつもなら、彼女はここで「ありがとうございます」とだけ言って去るか、あるいは僕のほうから話しかけて物語が始まっていた。 彼女の方から「既視感」を口にするなんて、初めてのことだ。


「……ないよ。君のような綺麗な人と会ったことがあれば、忘れるはずがない」


 僕は嘘をついた。世界で一番残酷な嘘だ。 僕の脳細胞には、君の泣き顔、笑い声、怒った時の口癖、右側の鎖骨にある小さな痣の位置まで、すべてが刻み込まれているというのに。


「……そう、ですよね。すみません、変なこと言っちゃって。私、一条美波と言います」


「美波……」


「えっ?」


 また、失敗した。 僕は彼女の自己紹介が終わる前に、無意識にその名前を呼んでしまっていた。 慌てて、僕は視線を逸らす。


「いや、……美しい波って書いて、美波なのかなって。なんとなく、君の雰囲気に合っている気がして」


「ふふ、当たりです。すごいですね、占い師さんみたい」


 彼女は屈託なく笑う。 その笑顔を守るために、僕は過去99回、あらゆる手を尽くしてきた。 時には彼女を死から救い、時には彼女の夢を支え、そしてその果てに、彼女の「愛している」という言葉とともに、僕は再びこの春の日に放り出されてきたのだ。


 けれど、今回の100回目は、僕に課せられた「最終試験」だった。


 今朝、目覚めた瞬間に脳裏に響いた神託めいた確信。 ――100回目の初恋が成就した時、輪廻の円環は閉じられる。 代償として、二人の存在は共有した記憶と共に、因果の地平から消滅する。


 もし、僕たちが結ばれれば、僕という人間も、美波という人間も、この世界から消えてなくなる。 僕たちが生きた証も、この美しい空も、誰の記憶にも残らない。 逆に、僕たちが結ばれなければ、僕は普通の人間としてこの世界で年老いていくことができる。美波も、僕以外の誰かと出会い、幸せな人生を送るだろう。


 それは、僕のいない世界で、彼女が生き続けることを意味していた。


「……美波さん。僕は、瀬戸ハルトという名前だ」


「ハルトさん。素敵な名前ですね」


「ハルトさん、もしよかったら、この後少しだけお時間ありませんか? お礼に、あそこのカフェでコーヒーでも……」


 彼女の誘いは、福音であり、死刑宣告だった。 ここで頷けば、僕たちは恋に落ちる。抗いようもなく、重力に惹かれる星々のように。 そして三ヶ月後、彼女が僕への愛を自覚した時、僕たちは世界から消える。


(……救いたい)


 僕は、彼女に生きてほしかった。 僕を忘れ、僕のいない明日を、彼女には謳歌してほしかった。 たとえ僕が、たった一人で三百年分の記憶という呪いを背負い続け、孤独の中で朽ち果てていくことになっても。


「ごめん。これから、人と会う約束があるんだ」


 僕は、彼女の目を見つめながら、鋼のような意志で言葉を紡いだ。


「そう……ですか。残念」


  彼女の表情に、あからさまな落胆が広がる。その陰りでさえ、僕には愛おしくてたまらなかった。


「でも、また会えますよね? この公園に、よく来るんですか?」


「……いや。もう、ここには来ないと思う」


 僕は、彼女に背を向けた。 足が震えていた。一歩踏み出すたびに、心臓の欠片が零れ落ちていくような感覚。


「待ってください、ハルトさん!」

 

 背後から彼女が駆け寄ってくる足音が聞こえる。 僕は振り返らなかった。振り返れば、彼女を抱きしめてしまう。 「これ……!」


 彼女が僕の手に押し付けたのは、先ほどのパステル画だった。


「さっきのお礼です。私、ハルトさんにこれを持っていてほしいって、直感が言ってるんです。……変ですよね、私」


 僕の手に、彼女の体温が残る画用紙が握らされる。


「……ありがとう。大切にするよ」


 僕はそれだけ言うと、逃げるようにその場を去った。 桜の花びらが、僕の肩に、頭に、容赦なく降り積もる。 それはまるで、祝福を装った葬列の花散らしのようだった。


 これが、僕の100回目の、そして人生で最後にするはずの初恋の始まり。 僕は、彼女に愛されないための戦いを始めた。


 それからの数日間、僕は暗い自室で、彼女から受け取った絵を眺めて過ごした。 青い空。 その絵を眺めていると、過去のループの記憶が奔流となって押し寄せてくる。


 第12回目のループでは、僕たちはこの絵によく似た空の下で、鎌倉の海を歩いた。 第45回目のループでは、彼女は画家になる夢を諦めようとして、僕の腕の中で一晩中泣いた。 第88回目のループでは、僕たちは老夫婦のような静かな生活を送り、病室の窓から一緒に空を見た。


 どの人生でも、彼女は僕を愛してくれた。 そしてそのたびに、僕は彼女を失ってきた。


(今回は、絶対に結ばれてはいけない)


 僕は自分に言い聞かせる。 しかし、運命という名の脚本家は、僕の予想を遥かに超える執念深さを持っていた。


 一週間後、僕は大学の講義棟の廊下で、信じられない光景を目にした。


「……あ」


 掲示板の前で、学生証を落としたのか、困った顔をして足元を探っている女性。 一条美波だった。


 なぜ、彼女がここにいる? これまでの99回、彼女は別の美大に通っていたはずだ。 僕が通うこの国立大学には、彼女との接点は一度もなかった。


「……どうして」 僕の唇から、震える声が漏れる。


 彼女が顔を上げた。 僕の姿を認めた瞬間、彼女の瞳に、パッと花が咲くような輝きが宿る。


「ハルトさん! ……やっぱり、また会えましたね」


 彼女が駆け寄ってくる。 その足取りは、まるで最初から僕というゴールを知っていたかのように、迷いがなかった。


「どうして、君がここに……。君は、武蔵野の美大にいるんじゃ……」


  言いかけて、僕は息を呑んだ。 今この世界で、彼女がどこの大学に所属しているか、僕は知らないはずなのだ。


 案の定、美波は不思議そうに小首を傾げた。


「美大? いえ、私はここの文学部ですよ。今年、編入してきたんです」


 歴史が、変わっている。 100回目にして、世界そのものが僕たちの接触を促すように、その形を変容させていた。


「ハルトさん、顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」


  彼女が心配そうに、僕の額に手を伸ばそうとする。 僕は反射的に、その手を払い除けてしまった。


 パチン、と乾いた音が廊下に響く。


「……触るな」


 僕の声は、自分でも驚くほど冷酷だった。 美波の手が、空中で凍りつく。彼女の瞳に、深い傷の色が浮かぶ。


「……ごめんなさい。馴れ馴れしかったですよね」


「……いや。僕の方こそ、ごめん」


 僕は彼女から距離を置く。 けれど、彼女は逃げなかった。


「ハルトさん。私、あの後ずっと考えてたんです。どうしてハルトさんに会った時、あんなに胸が苦しくなったのか」


「それは、君の勘違いだ。僕たちは赤の他人だ」


「いいえ。……私、夢を見るんです。知らない場所で、知らない服を着た私と、ハルトさんが笑い合っている夢を。……昨日も見たんです。二人で、真っ白な雪道を歩いている夢を」


 心臓が、凍りついた。 それは第32回目のループ、北海度へ卒業旅行に行った時の記憶だ。 記憶がないはずの彼女の意識に、過去の残像が染み出し始めている。


 100回目。 それは、世界が限界を迎えている証拠だった。 僕たちが何度も何度も繰り返し、愛を刻みつけすぎたせいで、世界の「保存データ」が壊れ始めているのだ。


 このまま彼女の傍にいれば、彼女はすべての記憶を取り戻すかもしれない。 そうなれば、彼女は瞬時に僕を「愛している」と確信し、その瞬間に――僕たちは消える。


「……もう、僕に関わらないでくれ」


  僕は絞り出すような声で言った。


「君の夢は、ただの妄想だ。僕は君の知っている誰かじゃないし、これからもそうなることはない。……頼むから、僕を一人にしてくれ」


 僕は彼女を置き去りにして、走り出した。 背後で、彼女が僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。 その声は、泣き出しそうなほど震えていて、僕の胸を容赦なく切り裂いた。


 大学を出て、夕暮れ時の街を彷徨う。 街灯が灯り、帰路を急ぐ人々が僕の横を通り過ぎていく。 誰もが、自分の「一度きりの人生」を疑わずに生きている。 今日が明日へ繋がり、その先に未来があると信じている。


 僕だけが、出口のない円環の中で、愛する人を拒絶し続けている。


(さよなら、美波。……愛しているんだ。死ぬほど、君を愛している)


 心の中で繰り返される独白。 けれど、その愛こそが彼女を殺す毒なのだ。


 僕はポケットの中で、彼女からもらったパステル画を強く握りしめた。 紙がくしゃりと音を立てる。 その痛みだけが、僕に今、この瞬間を生きていることを実感させてくれた。


夜の帳が下りる。 100回目の春は、まだ始まったばかりだった。

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