第4話 護符に刻む“いま”

 翌朝、食堂の空気がいつもより冷たかった。

 冬のせいじゃない。私の周りだけ、温度が一段下がっている。

 トレーを持って列に並ぶと、後ろに来た女生徒がわざと一歩前に詰めた。肩が当たる。謝らない。

 私は何も言わず、黙って距離を取った。

 「二班ってさ、昨日結界の中で揉めたんでしょ」

 「アリアが変な術を使ったって話、ほんと?」

 「レオン様が最近おかしいの、あの子のせいだって……」

 「カイルが庇ってるのも怪しいよね」

 怪しい……

 その言葉が、胸の奥で鈍い音を立てる。

 “怪しい”のは――忘却紋を使った誰かだ。

 でも、犯人の顔が見えない以上、矢印は私に向く。私は目立たないし、反論もしない。標的として都合がいい。

 席を探す。

 いつもの場所が、なぜか遠い。

 「こっち」

 カイルの声がして、私は顔を上げた。

 柱の陰の端の席。昨日と同じ、少し暗い場所。彼が先に座って、私の分の椅子を引いてくれている。

 私はそこへ逃げ込むみたいに座った。

 背中の刺さる視線が少し薄まる。

 「……噂、広がってる」

 私が小声で言うと、カイルはパンを割りながら頷いた。

 「意図的だ」

 即答だった。

 私はスープの表面を見つめる。

 「誰が?」

 カイルは答えない。

 答えられない、じゃなくて。答えないという選択をしている。

 また秘密。

 守るための秘密。

 でも私は、守られるだけの人形じゃないのに。

 「今日、放課後」

 カイルが話題を切り替えるように言った。

 「護符を作る。お前の分、二枚。俺の分、二枚。あと、予備」

 私は頷いた。

 「結界札も?」

 「作る。……昨日の忘却紋は……触れられたら、記憶を削られる」

 記憶を削られる。

 その言葉に、昨夜の恐怖が蘇る。額に触れられそうになった感覚。前世の炎の匂い。

 私はスプーンを握り直した。力が入って、指が白くなる。

 「……アリア」

 カイルが、私の拳を見た。

 「怖いなら、怖いって言え。強がらなくていい」

 その声音が、優しいだけじゃなくて――許すみたいで。

 胸の奥がひどく熱くなる。

 「……怖い」

 私は、やっと言えた。

 カイルは小さく頷く。

 「それでいい」

 それだけで、少しだけ息が楽になった。

 食堂の入口がざわつく。

 レオンが入ってきた。

 目が合わないようにしたいのに、気配だけで分かる。

 彼の周りの空気が変わる。視線が集まる。彼はそれを当然みたいに受け流す。

 でも――今日は、いつもと違う。

 レオンは誰とも腕を絡めていない。

 リディアもいない。

 彼はまっすぐに飲み物の列へ行き、途中で立ち止まった。

 視線がこちらへ向く。カイルの隣。私の座る席。

 私は、反射的にスープへ目を落とした。

 見たら、また期待が生まれる。

 生まれてしまった期待の処理が、私にはもう追いつかない。

 「……」

 レオンは何か言いかけたみたいに口を開き、閉じた。

 そして何もなかったふうに列へ戻っていく。

 それだけ。

 それだけで、胸の奥がじわじわ痛むのは、私がまだ彼をどこかで待っているからだ。



 放課後。

 薬草と魔術素材の匂いが染みついた調合室は、窓が少なくて少し暗い。壁には乾燥させた草束が吊るされ、棚にはガラス瓶がぎっしり並んでいる。

 カイルは手際よく道具を揃えた。

 銀砂、黒樹の樹脂、浄化水、糸、薄い金属板――護符の芯材。

 「護符は“錨”が必要だ」

 カイルが言う。

 私は金属板を指でつまみ、冷たさを確かめた。

 「錨?」

 「記憶の錨。削られないために、固定するもの」

 胸がざわつく。

 記憶――私が一番痛いところ。

 「何の記憶でもいいの?」

 カイルは一瞬だけ黙って、言葉を選ぶ。

 「……強いほどいい。できれば、“今の自分”に繋がるやつ」

 今の自分。

 その言い方が、なぜか刺さった。

 私の強い記憶は、前世に偏っている。

 レオンの声。手。最期の瞳。

 でもそれを錨にしたら、私はまた前世に縛られる。

 “今”に戻れなくなる。

 「手、出して」

 カイルが言う。

 私は掌を差し出した。カイルの指が、私の掌の中央に銀砂をさらさらと落とす。冷たい粒が皮膚に散る。

 「痛かったら言え」

 カイルはいつも私を気遣う

 私は息を吸う。

 カイルは樹脂を少し溶かし、銀砂と混ぜてペーストにした。

 それを金属板に薄く塗り、細い針で紋を刻む。

 複雑な線が、迷路みたいに絡み合い、中心に小さな空白が残る。

 「ここに錨を入れる」

 カイルが言った。

 「錨は、言葉じゃなくていい。思い出すだけでいい。……お前が選べ」

 私は喉が詰まった。

 選べ。

 私が。

 ずっと、選べなかったのに。

 レオンを選び続けてしまう自分。

 選びたくないのに選んでしまう、弱さ。

 私は目を閉じた。

 前世の炎がちらつく。

 レオンの声が聞こえる。

 『生きて』

 その記憶は強すぎる。錨にしたら、きっと私は動けなくなる。

 代わりに――

 思い出したのは、昨日。

 迷路結界で、影が額に触れようとした瞬間。

 息ができなくなって、膝が折れそうで。

 そのとき吹いた風。裂けた空気。

 カイルの低い声。

 『触るな』

 そして、肩を掴んだ手の強さ。痛み。生きている痛み。

 私は、ゆっくり息を吐いた。

 錨は、これでいい。

 前世じゃなくて。

 今の私を救った人の記憶で。

 目を開けると、カイルが私を見ていた。

 視線が静かで、深い。

 「決めた?」

 私は頷いた。

 「うん」

 カイルは私の掌を取り、銀砂の粒をそっと握らせた。

 彼の指が私の指に重なる。近い。

 ただの作業なのに、胸がうるさくなる。

 「思い出せ」

 カイルの声は低い。

 私は、今の記憶を掴む。

 風の音。影の冷たさ。カイルの手。

 “生きている”という感覚。

 銀砂が、掌の中で微かに温かくなった。

 カイルがその銀砂を中心の空白に落とし、樹脂で封じる。

 最後に浄化水を一滴垂らすと、護符が淡く光った。

 光はすぐ消えた。

 でも、心の中に何かが残る。

 私は胸の奥がふわっと軽くなるのを感じた。

 「できた」

 カイルが言った。

 私は護符を見つめる。

 小さな板。薄い紋。

 それなのに、私の中の“戻れない怖さ”が少しだけ遠のいている。

 「……私、前世の記憶で錨を作らなくてよかったのかな」

 思わずこぼれた。

 カイルは一瞬だけ目を伏せ、それから言った。

 「よかった」

 即答だった。

 「前世の恋が嘘だって言いたいわけじゃない。……でも、今のお前が壊れるなら、意味がない」

 その言葉が、胸に刺さる。

 優しさが痛い。

 痛いのに、嬉しい。

 「……カイル」

 私が名前を呼ぶと、カイルの手が一瞬止まった。

 彼は何か言いかけて、やめたみたいに唇を結ぶ。

 その沈黙の中に、言葉にならない温度がある。

 作業を続けて、二枚目の護符を作る。

 今度は手が震えなかった。

 護符が二枚、机の上に並ぶ。

 私はその光景を見て、少しだけ笑った。

 「……強くなった気がする」

 カイルが小さく笑う。

 「錯覚じゃない」

 その瞬間、調合室の扉が勢いよく開いた。

 「カイル! アリアさん!」

 リディアが入ってきた。

 頬が赤い。息が少し荒い。演技か、本気か分からない。

 「大変です。レオン様が……!」

 私の心臓が跳ねる。

 嫌な予感が、喉元まで上がる。

 「何があった」

 カイルが低く言う。

 リディアは涙目を作り、言った。

 「レオン様、さっき廊下で倒れかけて……! 急に頭が痛いって。アリアさんの名前を……」

 呼んだ?

 胸が熱くなる。

 熱くなるのが怖い。

 カイルが私の表情を見て、短く息を吐いた。

 「……行く」

 調合室を出ると、廊下の向こうに人だかりができていた。

 ざわざわした声。好奇心の音。

 その中心に、壁にもたれて座り込むレオンがいる。

 顔色が悪い。額に汗。

 手が手首を押さえている――いつもの癖より強い力で。

 私は足が止まりそうになった。

 助けたい。

 近づきたくない。

 「散れ!」

 カイルが声を張ると、人だかりが少しずつ引いた。

 レオンが顔を上げ、私を見る。

 視線が合う。

 無関心ではない。

 混乱と、苛立ちと、――焦り。

 「……お前」

 レオンの声が掠れている。

 「なんで、お前の名前が出てくる」

 私は息を止めた。

 問い詰められているのに、心臓だけが変に浮き立つ。

 “思い出したかもしれない”という、愚かな期待。

 カイルが間に入る。

 「無理に話すな。頭痛の原因を先に――」

 「お前は黙れ」

 レオンが苛立ったみたいに言った。

 その声が鋭くて、私は小さく肩を震わせた。

 でも次の瞬間、レオンは自分の言葉に驚いたみたいに眉を寄せた。

 苛立ちは、私たちにじゃない。自分に向いている。

 「……悪い」

 低く謝り、レオンは額を押さえた。

 「映像が出る。燃えてる。叫び声。……それで、お前が泣いてる」

 私は喉が痛くなった。

 前世の光景。

 私が泣いたのは、最期の――

 言ってはいけない。

 押し付けてはいけない。

 記憶がない彼に、私の地獄を見せてはいけない。

 「……気のせい」

 私は昨日と同じ嘘をついた。

 嘘の味が、どんどん苦くなる。

 レオンが私を睨むみたいに見た。

 「気のせいで、こんな痛くなるかよ」

 彼は手首を強く押さえ、唇を噛んだ。

 そして、吐くように言った。

 「……俺は、何かを忘れてる」

 その言葉は、真実だった。

 胸が痛いほど分かる。

 カイルが静かに言う。

 「無理に開けるな。封は、乱暴にこじ開けると壊れる」

 封。

 今、カイルは“封”と言った。

 レオンが顔を上げる。

 「……お前、知ってるのか」

 カイルは答えない。

 そして私を見た。

 “ここで言うな”という目。

 そのとき、背後から囁き声がした。

 「やっぱり……」

 「アリアが何かしたんだ」

 「レオン様が苦しんでるの、あの子のせい……」

 刃が、また生まれる。

 私は体の芯が冷えるのを感じた。

 自分のせいじゃない。

 でも、証明できない。

 私が黙れば、噂は真実になる。

 レオンがゆっくり立ち上がった。

 足元はふらついているのに、目だけが鋭い。

 「……誰が言ってる」

 周りの声が止まる。

 空気が凍る。

 レオンは一歩、私の前に出た。

 それが、庇う形になる。

 私は驚いた。

 彼が私を庇うなんて、今世で初めてだ。

 でも――

 レオンの背中の温度に、私は前世を思い出してしまう。

 戦場で、彼が私の前に立った背中。

 その背中に縋った自分。

 私は怖くなった。

 また縋ってしまう。

 また、心が戻ってしまう。

 「……やめて」

 私の口から、思わず言葉が漏れた。

 小さい声だったのに、レオンには聞こえたらしい。

 彼が振り返る。

 傷ついたみたいな顔をする。

 「何で」

 私は答えられない。

 “庇われると期待してしまうから”なんて言えるわけがない。

 カイルが私の手首を取った。

 護符の入った小袋を握らせる。

 「行くぞ」

 私たちはその場を離れた。

 背中にレオンの視線が刺さる。

 庇われたのに、私は逃げた。

 寮へ戻る途中、カイルが低く言った。

 「護符、今から身につけろ。肌に触れる場所がいい」

 私は頷き、制服の内側に小袋を滑り込ませた。

 護符が胸の上に当たる。冷たいのに、心が少し落ち着く。

 「……カイル」

 歩きながら、私は言った。

 「レオンの封印って、やっぱり――」

 カイルは足を止めずに答えた。

 「今は言えない」

 また。

 またそれ。

 私は唇を噛んだ。

 怒りたいのに、怒れない。

 カイルが私を守るために黙っているのが分かってしまうから。

 「でも」

 カイルが続けた。

 「一つだけ言う。封は誰かの“善意”で作られたものじゃない」

 胸が冷たくなる。

 「……誰かが、レオンを忘れさせたの?」

 カイルは頷かない。

 でも否定もしない。

 その夜、私は自室の机に護符を置き、灯りの下で眺めた。

 小さな板に刻まれた紋が、私の“いま”を支えている。

 ――カイルの風。

 ――私が生きている痛み。

 私はそっと護符を握りしめた。

 そのとき、扉の下から何かが滑り込んできた。

 薄い紙片。誰かのメモ。

 嫌な予感がして、私は紙片を拾い上げた。

 開いた瞬間、指先が冷える。

 そこに描かれていたのは――

 あの“忘却紋”と同じ文様だった。

 そして、文様の横に短い一文。

 『次は遠征で、思い出ごと落とす』

 呼吸が止まった。

 手が震える。

 護符を握る手に、汗が滲む。

 遠征試験は、試験じゃない。

 これは、私とレオンとカイルの心を壊すための“罠”だ。

 私は紙片を握り潰し、立ち上がった。

 逃げない。

 今度は、逃げない。

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2026年1月12日 21:00

前世の恋人は忘れている――だから私は、今世のあなたを選んだ 花火の子 @Hanabinoko

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