第3話 呼ばれた名前の重さ
翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。
眠りが浅かったわけじゃない。夢も見なかった。なのに心臓だけが、高鳴っている。
――アリア?
レオンが私の名を呼んだ。
間違いだったとしても、幻だったとしても、あの一瞬だけは確かに“前世の彼”の響きだった。
期待してはいけない。
そう思うほど、期待が生まれる。
希望は、私の一番弱いところに刺さってくる。
寮の廊下に出ると、朝の冷たい空気が頬を叩いた。
私は深呼吸して、校舎へ向かう。
教室に入った瞬間、視線が絡みついた。
リディアと数人の女生徒がひそひそと笑っている。噂の匂いがする。
「昨日、図書室で二班の作戦会議してたって」
「え、リディアいかなかったの?」
「体調くずしちゃって」
「じゃあ、アリアとレオン様が二人きりだったの?」
「カイルもいたはずよ。でもさ、アリアって地味なのに……」
地味で悪かったね、と言えたらどれだけ楽だろう。
私は聞こえないふりをして席に着いた。ノートを開き、呼吸を整える。
レオンはまだ来ていない。
来ない方がいい。
会いたい。
会いたくない。
矛盾が胸の中で絡まり、ほどけない。
授業が始まってから少しして、扉が開いた。
遅れて入ってきたのはレオンだった。髪が少し乱れていて、目の下に薄い影がある。
眠れていない?
昨夜の混乱のせいで?
レオンは教師に軽く詫び、席に着いた。
その動作がいつもより乱暴で、苛立ちが滲む。……自分に、なのかもしれない。
私は見ないふりをする。
見たら、また期待してしまう。
けれど、授業中にふいに視線を感じた。
刺さるような視線じゃない。探るような、確かめるような。
私は反射的に顔を上げてしまった。
レオンと目が合う。
昨夜のような混乱はない。
ただ――彼の瞳が、私の中の何かを見極めようとしている。
「……」
私は先に目を逸らした。
その瞬間、胸が痛む。私が逃げると、彼が遠ざかる気がして。
授業が終わる。
学生たちが一斉に立ち上がる音が、波みたいに押し寄せる。
私は教室を出ようとして、袖を引かれた。
カイルだ。
「歩きながらでいい。話がある」
「うん」
私たちは人の流れから外れ、窓際の廊下を歩いた。
校庭には冬の光が薄く広がり、訓練場の砂が白く光っている。
カイルは私の顔を横目で見た。
「昨夜のこと、引きずってる」
断定だった。
私は笑って誤魔化す余裕もなく、頷いた。
「……うん。だって、名前を呼ばれた」
カイルの顎が僅かに固くなる。
それがどういう感情なのか、私は分からない。
「偶然だ」
「分かってる。分かってるのに……」
私は息を吐いた。
分かっている。だけど心は、理屈よりずっと厄介だ。
「アリア」
カイルが立ち止まり、私の前に立った。
廊下の光が彼の髪に落ち、目が少しだけ優しく見える。
「期待するな、って言いたいわけじゃない」
私の胸が揺れた。
期待するなと言われたら、私はきっと今ここで泣く。
「でも、飲まれるな。お前が壊れるのを、俺は見たくない」
その言い方が、前世の誰よりも私を守ろうとする言い方で。
私は喉が熱くなるのを感じた。
「……うん」
その日の午後、実技訓練が始まった。
二班の連携を高めるため、教授が課したのは“迷路結界”だった。
演習場に半透明の壁が立ち上がり、学生たちは班ごとに迷路の中へ放り込まれる。
出口に辿り着くまで、疑似獣が襲ってくる。班の連携が乱れるとすぐ迷子になる。
昨日の
「二班、入れ!」
教授の合図で、私たちは結界の中へ踏み込んだ。
光が揺らぎ、視界が一瞬白くなる。
次に見えたのは、狭い通路。左右に高い壁。空は見えない。
土の匂いが濃い。
「……よし、行く」
カイルが先頭に立ち、私が続く。
レオンは少し後ろ。リディアがレオンの隣に寄る。
嫌な予感が、背中のあたりでちくちくと針を刺す。
最初の角を曲がった瞬間、疑似獣が二体跳び出した。
私は杖を振り上げ、火の線を走らせる。
「――火走り(カサネ)!」
影の足が焼け、動きが鈍る。
カイルの風の刃が正確に首を落とす。
連携はいい。昨日よりも。
レオンは後方から雷撃を落とし、残った影を粉々にする。
派手だが、今日は無茶はしない。……少なくとも、今のところは。
迷路を進む。
通路は何度も分岐し、似た景色が続く。方向感覚が狂いそうになる。
私は壁に指を滑らせ、魔力の流れを感じ取った。
結界の癖を読むのが、私は得意だ。
「こっち。右の方が流れが薄い。出口に近い」
「了解」
カイルは即座に頷き、進路を変える。
レオンが後ろで「へえ」と短く言った。
それだけで胸がざわつく。
褒められたわけでもない。興味を持たれたわけでもない。
でも“無関心”よりはましで。
――やめて。
私の心がまた、勝手に彼へ向かう。
そのとき。
リディアがわざとらしく足を止めた。
「あっ……!」
彼女の声が響き、同時に足元の床が光った。
紋章。見覚えがある。――忘却紋に似た文様。
「罠――!」
叫ぶ暇もなく、結界が歪んだ。
空気が引き裂かれるような音。視界がねじれる。
「アリア!」
カイルの手が伸びた。
でも間に合わない。
私は足元が抜ける感覚とともに、別の通路へ投げ出された。
地面に膝をつき、息が詰まる。
顔を上げると、そこはさっきまでの通路と似ているが、空気が違う。
重い。
魔力が澱んでいる。
――地図で見た“淀み”。
胸が冷える。
この場所に、何かいる。
私は立ち上がり、壁に手を当てる。
出口へ戻る魔力の流れを探るが、流れが絡み合っていて読めない。
遠くで、別の疑似獣の咆哮が響いた。
音が近い。
私は杖を構え、息を整える。
大丈夫。私は弱くない。前世で戦った。今世でも戦える。
そう言い聞かせた瞬間、通路の影が揺れた。
疑似獣――じゃない。
人の形をした影が立っている。
顔がない。
でも、こちらを見ているのが分かる。
「……なに」
声が震える。
影が一歩進む。床に影の紋が広がり、私の足元に絡みつく。
体が重い。
息がしにくい。
記憶が――引っ張られる。
視界の端に、炎が見えた。
前世の炎。
悲鳴。血。鉄の匂い。
私は膝をつきかけた。
「やめ……っ」
影が、私の頭の中を覗くみたいに、さらに近づく。
忘却紋。
これは訓練じゃない。演習用の結界に混ざった“本物”だ。
私は必死で杖を振る。
「――火走り!」
火は出た。
でも影は燃えない。火がすり抜ける。
影の腕が伸び、私の額に触れようとする。
――思い出を、奪われる。
その恐怖で、私は叫んだ。
「レオン……!」
次の瞬間、風が爆ぜた。
通路の空気が一気に裂け、影が壁に叩きつけられる。
飛び込んできたのはカイルだった。
瞳が鋭い。いつもの穏やかさが消えている。
「触るな」
低い声。
カイルが杖を振り下ろすと、影の紋が一瞬で解けた。
影が呻くように揺れ、逃げるように後退する。
その背後から、雷が落ちた。
「――落ちろ」
レオンだ。
雷撃が影を貫き、通路が白く光る。
影は霧散した。
私は息を吸い込んだ。
やっと呼吸ができる。
カイルが私の肩を掴む。
指が強い。痛いほど。
「大丈夫か」
「……うん……」
声が震える。
カイルは私の額に手を当て、熱がないか確かめるように触れた。
その仕草が、あまりにも近くて、私は一瞬だけ胸が変な音を立てた。
恐怖の後だから、余計に。
「……間に合ってよかった」
カイルが低く言う。
レオンが少し離れた場所で、私を見ていた。
目がいつもより鋭い。
彼の視線が私の額に触れた場所――影が触れようとした場所に留まる。
「さっきの、何だ」
レオンが言った。
「訓練の疑似獣じゃない」
カイルが答える前に、私は言ってしまいそうになった。
忘却紋。記憶に触れる術。――言ったら終わる気がした。
レオンが一歩近づく。
その動きが、前世の彼の動きに似ていて、胸がまた痛む。
「お前、何か知ってるだろ」
私は息を止めた。
レオンの瞳が、私の中の秘密に触れようとしている。
カイルが間に入る。
「今は退避が先だ。ここは結界の“淀み”だ。長居すると危険」
レオンの眉が寄る。
「……お前は何を知ってる」
カイルは答えない。
答えられない。
私はその沈黙を見て、胸の奥がざわつく。
カイルは何かを知っている。
レオンの記憶がない理由に、繋がる何かを。
そのとき、通路の奥で、かすかな笑い声がした。
子どものような、女のような、どちらでもない声。
背筋が冷える。
「……逃げろ」
カイルが言った。
その声は、命令だった。
私たちは走った。
迷路の壁が歪み、足元が光り、魔力の流れが不気味に渦巻く。
出口が見えた瞬間、教授の声が外から響く。
「二班、遅い! 何をしている!」
結界を抜けた途端、空気が軽くなった。
私は膝に手をつき、息を吐いた。
手がまだ震えている。
教授がこちらへ来る。
怒鳴るために。
でも私の顔色を見た瞬間、眉が動いた。
「……何があった」
レオンが答えようとした。
カイルが一歩前に出る。
「結界の異常です。内部に術式の混入がありました」
教授の顔が変わる。
怒りが、警戒に切り替わる。
「……混入?」
リディアが少し遅れて出てきた。
息も乱れていない。
泣きそうな顔を作り、教授に駆け寄る。
「わ、私、怖くて……! アリアさんが急にいなくなって……!」
彼女の言葉が、私の神経を逆撫でする。
“急にいなくなった”。
まるで私が勝手に消えたみたいに。
罠の紋が光ったのは、彼女の足元だった。
偶然?
それとも――
私は言いかけた。
でも言えない。証拠がない。言えばただの嫉妬に見える。
カイルが私の肩に手を置いた。
落ち着け、と言うみたいに。
レオンが教授を見て、低く言った。
「これは訓練じゃない。誰かがやった」
教授の目が細くなる。
「……今夜、二班は私の部屋へ来い。詳細を聞く」
そう言い残し、教授は結界の点検へ向かった。
学生たちがざわつく。視線がこちらへ集まる。
「何があったの?」
「二班、揉めた?」
「アリア、顔色悪い……」
噂がまた、刃になる。
私は寮へ戻る道すがら、肩を押さえた。
触れられた額が、まだ冷たい。
「……ごめん」
不意に、レオンが言った。
私の隣を歩きながら。
私は足が止まりそうになった。
今度は謝罪らしい。声の温度が、ほんの少し違う。
彼は言葉を探すように、眉間を押さえた。
痛みを耐える癖みたいに。
「……お前の声、聞いた気がした。叫び声。……胸が、変な感じがした」
胸が変な感じ。
それを聞いてしまったら、私はもう、期待を止められない。
「……気のせいだよ」
私は嘘をついた。
本当は叫んだ。レオンの名前を。
レオンは私をじっと見た。
その瞳に、無関心ではない何かがある。
でもそれが“前世の愛”なのか、“今の興味”なのか分からない。
カイルが少し前で立ち止まり、こちらを振り返る。
目が、静かに怒っている。
私はレオンから視線を外し、カイルの元へ急いだ。
夜。
教授の部屋での聞き取りが終わった後、寮へ戻る廊下は静かだった。
カイルは私の歩幅に合わせて歩く。
何も言わない。言わないけれど、怒りの熱が伝わってくる。
「……カイル、怒ってる?」
私が言うと、彼は足を止めた。
廊下の灯りが、彼の瞳を金色に光らせる。
「怒ってる」
即答だった。
私は息を止める。
「お前が、ああいう術に触れかけたことに」
「……私のせいじゃ」
「分かってる」
カイルが一歩近づく。
距離が近い。私は後ずさりしそうになった。
「でも、俺の前で壊れそうになるな。……俺は、お前がいない世界を――」
言葉が途中で止まった。
カイルの喉が動く。
私は胸の奥が強く鳴った。
今、彼は何を言いかけた?
「……何?」
私が聞くと、カイルは目を逸らし、短く息を吐いた。
「……いや。今はいい」
今はいい。
そうやって、彼はまた秘密を抱える。
私は自分の部屋の前に着き、扉に手をかけた。
そのとき、カイルが背中越しに言った。
「明日、二人で準備をする。護符も、結界札も。――お前を守るためのやつ」
私の胸が、じんと温かくなる。
守られるのは怖い。弱くなるのが怖い。
でも、それでも――嬉しい。
「……うん。ありがとう」
扉を閉めて、ベッドに座り込んだ瞬間、涙が落ちた。
恐怖の涙なのか、安堵の涙なのか、分からない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
遠征試験は、ただの試験じゃない。
誰かが、意図的に“忘却”を混ぜている。
そして、その“誰か”は――
私たちの心を、壊しに来ている。
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