第三話:収束する二進法(XOR / Exclusive OR)

 深夜の住宅街は、巨大な回路図のように静まり返っていた。

 僕はリビングのソファに深く沈み込み、消えたテレビの黒い画面に映る、自分のひどく疲れ切った顔を見つめていた。

 凛の拒絶による自己嫌悪と、澪の過剰な肯定による精神的な麻痺。その波状攻撃は、僕の思考から「客観性」という機能を奪い去ろうとしていた。


 ――二人は、繋がっている。


 その確信を証明するために、僕は深夜、二人が眠っているはずの部屋へと向かった。

 厚いドアの向こうから、微かな話し声が聞こえる。

 それは、昼間の彼女たちが絶対に見せない、感情の起伏を削ぎ落とした、無機質なトーンだった。


「……今日の検体(にいさん)の脈拍、ランダム行動の最中に一割上昇したわ。少し負荷をかけすぎたんじゃない?」


「いいえ。あの程度のストレス値なら、私の『救済』の効果を高めるためのスパイスになるわ。明日はもう少し、倫理的な揺さぶりをかけてみて」


 血の気が引くのがわかった。

 凛と澪の声は、交互に、淀みなく重なり合っている。

 そこに「姉妹の語らい」などという温かなものは存在しない。そこにあるのは、一つのプロジェクトを完遂させようとする、技術者同士の「調整」だった。


 僕はドアを力任せに開けた。


「……何をしているんだ、二人とも」


 月明かりが差し込む部屋の中で、二人は鏡合わせのように向かい合って座っていた。

 手に持ったタブレットには、僕のスマートフォンの位置履歴や、家の中の至る所に設置されているであろうセンサーのデータが、複雑なグラフとなって表示されていた。


「あら、起きてしまったのね。計算より三分早いわ」

「残念。せっかく、明日はもっと完璧な幸せ(プログラム)をあげようと思っていたのに」


 凛が冷たく言い、澪が愛おしげに続けた。

 彼女たちは驚く風もなく、むしろ待っていたかのように僕を見つめる。


「説明しろ。僕を使って、何をしているんだ」


「説明? 兄さん、それは不毛な質問ね」

 

 凛が立ち上がり、月光を背に受けて僕に近づく。


「この世界はノイズに満ちているわ。他人の視線、無意味な選択、不確実な未来。兄さんのような繊細なOS(こころ)は、外の世界に晒されるだけで摩耗し、やがて壊れてしまう」


「だから、私たちがフィルターになってあげているの」  

 今度は澪が、反対側から僕の腕に触れた。


「凛が不要な選択肢を否定し、私が正しい選択肢だけを愛してあげる。兄さんは、私たちが提示する二進法(ゼロとイチ)に従っているだけでいい。そうすれば、兄さんの世界から苦痛は消滅するわ」


「そんなの、ただの飼育じゃないか!」


「ええ。でも、至高の飼育よ」  


 二人は僕を挟み込むようにして、同時に囁いた。


「私たちは二人で一人。兄さんを愛し、管理するための『システム』。……凛が『排他的論理和(XOR)』の片側を担い、私がもう片側を担う。兄さんがどちらかを選ぼうとするたびに、私たちの回路は完成し、兄さんを安全な内側へと引き戻す」


 僕は逃げようとした。だが、足が動かない。


 凛の冷徹な正論が「外の世界の恐ろしさ」を僕の脳に刻み込み、澪の柔らかな手の温もりが「ここから離れることの不安」を増幅させる。


 拒絶と肯定。


 その二つの信号を同時に、かつ精緻に与えられ続けた結果、僕の脳は、彼女たちという入力(インプット)なしでは、もはや「安心」という出力を生成できなくなっていたのだ。


「さあ、兄さん。選んで」

 凛が、氷のような手で僕の左手を握る。


「外の世界で、再び無価値なノイズに塗れて生きていくのか」


「それとも」


 澪が、熱を帯びた手で僕の右手を取り、指を絡めた。


「ここで、私たちが整えた完璧な幸福の中に沈んでいくのか」


 究極の二択。


 だが、それは提示された時点で、すでに答えが決まっている問いだった。

 凛に否定される恐怖と、澪に肯定される快楽。そのどちらもが、結局は彼女たちの手のひらの上に繋がっている。


 僕は、ゆっくりと膝をついた。

 自分の意志で動くことをやめた僕の体は、驚くほど軽かった。

 思考を停止させ、彼女たちが提供する信号に従うこと。それが、この美しく断絶された世界で生き残るための、唯一の最適解(ロジック)なのだ。


「……いい子。それでいいのよ、兄さん」

「計算通りね。これで私たちのシステムは、完全な均衡(シンメトリ)に達したわ」


 凛が僕の髪を撫で、澪が僕の頬に唇を寄せる。

 左右から押し寄せる、冷気と熱気。

 その二進法の間で、僕という個体は静かに消滅し、彼女たちの幾何学模様の一部へと書き換えられていった。


 窓の外、夜が明ける気配はない。

 ただ、完璧に管理された静寂だけが、僕たちを包み込んでいた。


(完)

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排他的な二進法、あるいは美しき断絶について 淡綴(あわつづり) @muniyu

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