第二話:条件分岐の罠(If-Then-Else)

 人間の思考プロセスは、膨大な数の条件分岐によって構成されている。


「もし、不快な事象に遭遇したならば(If)、回避行動をとれ(Then)。さもなくば(Else)、現状を維持せよ」


 僕の日常は、いつの間にかその単純な構文の中に閉じ込められていた。凛が僕を否定し、澪が僕を肯定する。その二者択一の繰り返しは、僕から「自分で考える」という演算処理を奪い、最短距離で澪の腕の中へと僕を誘(いざな)う。


 その日、僕は小さな抵抗を試みることにした。

 学校で、部活の合宿への参加を打診されたのだ。いつもなら凛に「非生産的」だと断じられ、その夜に澪に慰められて諦めるのが既定のルート(デフォルト)だった。だが、僕はあえてその話を、家では一切口に出さないことに決めた。


 夕食の席。沈黙を支配しているのは、凛の冷徹な咀嚼音だ。

 彼女は僕が今日、何かに迷っていることを察しているようだったが、何も聞いてはこなかった。ただ、僕の箸の進みが数ミリ遅いことを、不快そうに一瞥しただけだった。


「兄さん。その合宿、行くつもりなの?」


 リビングに移動した際、背後から凛の声が飛んできた。

 僕は心臓を掴まれたような衝撃を覚える。まだ誰にも言っていないはずだった。


「……どうして知ってるんだ」


「兄さんのカバン、少しだけ膨らんでいたわ。三号館の掲示板の前を通る時、兄さんの視線が左に三度動いた。あそこには合宿の案内が貼ってあったはず。……推論を立てるまでもないわね。そんな無駄な集団行動に時間を割くなんて、兄さんの脳は余剰リソースが余っているのかしら」


 凛はそれだけ言うと、僕の返事も待たずに自室へと消えた。

 彼女の言葉はいつも、正確に僕の弱点を射抜く。自分の意志だと思っていたものが、単なる予測可能な「挙動」として処理される屈辱。


 そして、わずか数秒後。

 凛の部屋のドアが閉まる音を合図にするかのように、キッチンの角から澪が現れた。


「兄さん、大変だったね。凛ったら、またあんな言い方して」


 あまりに完璧なタイミングだった。

 バトンを受け取るリレー走者のように、彼女は凛の去った後の空間に、甘い香りを振り撒きながら滑り込んできた。


「合宿、行きたいなら行けばいいのに。……でも、兄さんはきっと、慣れない環境で疲れちゃうと思うな。私は、兄さんがお家でゆっくりしている顔を見ているのが一番好きだよ」


 澪は僕の隣に座り、僕の指を絡めるように握った。

 凛が冷たい「If(もしも)」を突きつけ、澪が甘い「Then(その時)」を提示する。  僕の脳内に、一つの疑念が回路のように繋がった。

 二人の間には、僕が感知できない「バス(通信路)」が存在しているのではないか。


 僕はさらなる検証のため、翌日、自分でも予期していなかった行動をとった。  放課後、いつも通る通学路を外れ、反対方向のバスに乗ったのだ。行先はない。ただ、凛という「観測者」から逃れ、澪という「受信者」を混乱させたかった。


 一時間ほど見知らぬ街を歩き、僕は小さな公園のベンチに座った。

 ここなら誰もいない。凛に会うことも、論理的に糾弾されることもない。

 僕は勝利したはずだった。この孤独こそが、二人の二進法から逸脱した証拠なのだから。


 だが、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 澪からのメッセージだった。


『兄さん、迷子になっちゃった? 公園の近くに、美味しいクレープ屋さんがあるんだよ。凛に怒られて自棄になっちゃったのかな。……可哀想に。今、迎えに行ってあげるね』


 指先が凍りついた。

 僕は凛に会っていない。糾弾もされていない。

 それなのに、澪は僕が凛によって「傷ついた」ことを前提として行動している。


 ……繋がっている。


 彼女たちは、個別の人間として僕に接しているのではない。

 一方が入力を担当し、もう一方がそれに応じた出力を生成する。

 僕は、彼女たちが共有する一つの巨大な「演算処理」の中に、生体パーツとして組み込まれているに過ぎないのだ。


 帰りのバスの中、僕は隣り合って座る澪の肩の温もりを感じながら、逃げようのない恐怖に襲われていた。

 彼女は僕の耳元で、愛おしげに囁く。


「大丈夫だよ、兄さん。兄さんがどこへ行こうとしても、私たちは『予測』できるわ。だって、兄さんのためのプログラムは、もう完成しているんだもの」


 それは、究極の最適化だった。

 僕が不快を感じれば、それを打ち消す快楽が自動的に供給される。

 僕が自由を求めれば、それを否定する論理が即座に立ち塞がる。


「もし、兄さんが私から逃げようとしたならば――」


 その構文の結末(Else)を知るのが、僕はたまらなく怖かった。

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