排他的な二進法、あるいは美しき断絶について
淡綴(あわつづり)
第一話:論理の否定(False / 0)
コンピュータの世界は、究極的には二つの状態しかない。
電気が流れているか、いないか。真か、偽か。零か、壱か。
複雑に見える現代社会の営みも、細分化していけばその二進法に収束するはずだ。僕が今日、クラスメイトの佐藤さんに消しゴムを貸したという事象でさえ、論理的な必然か、あるいは無意味な冗長(レッドンダンシー)かのどちらかに分類される。
放課後の教室、夕陽が斜めに差し込む窓辺で、僕はその「分類」を突きつけられることになった。
「兄さん。今の行動、何の意味があったの?」
背後から、低く、硬質な声がした。
振り返ると、そこには双子の妹の一人、凛(りん)が立っていた。
彼女は僕と同じ顔のパーツを持ちながら、その瞳には凍てついた理知だけを宿している。乱れのない制服の着こなし、感情を削ぎ落とした立ち姿。彼女は僕の「零(ゼロ)」を司る観測者だ。
「……何って、消しゴムを忘れて困っていたから、貸しただけだよ」
「困っていた。それは主観的な観測ね」
凛は一歩、距離を詰め、僕の机を指先でなぞった。
「佐藤さんは昨日も、その前も消しゴムを忘れていたわ。それは『困っている』のではなく、彼女の生活習慣に欠陥があるという証拠。そこに兄さんがリソースを割くことは、彼女の欠陥を助長させるだけで、長期的には彼女の損失に繋がる。……つまり、兄さんの行動は、親切ではなくただの無能な干渉。そうは思わない?」
凛の言葉には、反論の余地がないほどに「正論」という名の冷たさが宿っていた。 彼女は僕が言葉に詰まるのを見逃さない。
「兄さんはいつもそう。目の前の小さな反応に振り回されて、全体の最適解を見失う。……不快だわ。自分の兄が、これほどまでに論理的思考に欠けているなんて」
蔑むような視線が、僕の存在そのものを否定していく。
彼女の毒は、罵倒よりも深く僕の精神を侵食した。僕が良かれと思ってしたことが、彼女のフィルタを通すと、醜く、愚かなノイズに書き換えられてしまう。
僕は逃げるように鞄を掴み、教室を後にした。
帰り道、夕闇は重く、自責の念が胸を締め付ける。
自分はなんて無神経で、無価値な人間なのだろうか。誰かの役に立とうとするたびに、誰かを不快にさせているのではないか。
家が近づくにつれ、足取りはさらに重くなった。
だが、玄関のドアを開けた瞬間、その重力から解放される。
「おかえりなさい、兄さん。……少し、顔色が悪いわね」
廊下の奥から現れたのは、もう一人の妹、澪(みお)だった。
凛と寸分違わぬ容姿。けれど、彼女の纏う空気は春の微睡みのように柔らかく、甘い。
彼女は僕の顔を覗き込むと、痛みを分かち合うような慈悲深い笑みを浮かべた。
「また凛に何か言われたの? ……あの子は少し厳しすぎるのよ。兄さんの優しさを、あの子の物差しで測るのが間違っているんだから」
澪は僕の腕を優しく掴み、リビングへと促した。
テーブルの上には、僕が最も好む香りを放つ、淹れたての紅茶が用意されていた。
「兄さんは、そのままでいいの。世間が、あるいは凛が何を言おうと、私が全部受け止めてあげる。兄さんのその繊細なところを、一番大切に思っているのは私なんだから」
彼女の指先が、僕の手の甲を優しく撫でる。
凛に削り取られた自尊心が、澪の温もりによって補完されていく。
冷徹な「否定」の後に訪れる、絶対的な「肯定」。
その落差に、僕の脳は快楽に近い安堵を感じていた。
「ねえ、兄さん。今日あった嫌なことは、全部このお茶と一緒に飲み干してしまいましょう? ここには兄さんを傷つけるものは何もないわ。私だけがいれば、それで十分でしょう?」
澪の瞳は、穏やかで、澄み渡っている。
けれど、その奥底に揺らめく光は、凛の冷たさとはまた別の、底知れない執着の色を帯びていた。
僕は、差し出されたカップを両手で包み込んだ。
凛が僕を突き放し、澪が僕を拾い上げる。
零と壱。
その繰り返される信号の中で、僕の自由意志という名の回路は、少しずつ、確実に、彼女たちが望むパターンへと書き換えられていく。
窓の外、夜の帳が降りる頃。
僕は、自分の部屋へ戻る凛の足音と、目の前で微笑む澪の吐息に挟まれて、心地よい閉塞感の中に沈んでいった。
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