神の気まぐれと遊び心

羽鐘

一度きりの神頼み

 誰もが一度は『神様、お願いです。たった一度のお願いを聞いてください』って祈ったことはあるだろう?


 今現在の俺が、まさにそれだ。

 満員電車のなか、一袋詰め放題で買える人参のようにぎゅうぎゅうと詰め込まれた空間で、俺は腹痛に耐えていた。

 原因究明は済んでいる、今朝飲んだ牛乳だ。

 賞味期限を少々過ぎていたんだが、冷蔵庫に入っていれば無敵だろうと思って飲んだ。ちょっと変な風味だったが、俺の腸内環境は無敵だろうと思い、そのまま出勤した。

 まぁ、無敵なんてものは創造の世界だけのものだと思い知らされたよ。


 最悪のタイミングだ。

 会社の最寄り駅まであと二駅。三分ほど耐えるだけなのだが、それが不可能に感じるほど長い時間に感じられる。

 考えてみろ。ウルトラマンの活動限界は何分だ?

 あんなすげぇやつだって三分が限界っていうなら、俺はいわば人類の限界に挑んでいるようなものなんだ。そりゃあ神にもすがりたくなるさ。

 俺の隣のおっさんは、吊り革をつかまずに呑気にスマホで何かを見ているが、電車が揺れるたびに俺に体重をかけてきやがる。殺意ってのは案外簡単に芽生えるってことを学んだよ。


 正直、俺は神に祈ったことはない。

 初詣も行ったことがない。

 そんな俺が、都合よく神頼みしたって、願いを聞いてくれないことなんて百も承知している。

 でもよ、ここで解放すると、俺の尊厳よりも周りの方が被害がでかいだろ?

 だから、俺は神に祈ったよ。

 八百万もいるんだろ?

 トイレにだって神様はいるんだろ?

 どんな神様だっていい、願いが届いてくれ。

『一生に一度きりのお願いだ。トイレまで、もたせてくれ……』


 すると、どうだ。

 ほんの少しだけ、腹痛が鎮まったんだ。

 今までフルパワーが必要だった括約筋から『ちょっとだけ楽になりました!』って報せが脳内に届いたんだ。

 あぁ、神様って、本当にいるんだなって思ったよ。

 でもまぁ、油断はできない。まだ瀬戸際であることには変わりない。

 相変わらずスマホばかりみているおっさんへの殺意を我慢の力に変え、俺はひたすら耐え続けた。


 目的の駅に到着した。

 降り口は逆側。のろのろと降りていくやつらを押しのけたい気持ちと便意を辛うじて堪えつつ、俺はトイレへと急いだ。

 苦悶の表情を浮かべ、脂汗を滲ませながら洪水のような人波をかきわけ、俺はトイレに着いた。

 ホラー映画で殺人鬼から逃れるやつみたいな素早さで扉を閉め、震える手でベルトを緩め、ズボンとパンツを同時に降ろす。

 腰かけた瞬間、爆発したよ。

 出したなんて生易しいもんじゃない。あれは、爆発だった。

 俺は勝ったんだ。人としての尊厳を保つことができたんだ。

 俺は生まれて初めて、神に感謝した。



 菩薩のような穏やかな顔で、俺はウォシュレットで身を清める。

『今度の休み、神社にお礼を伝えに行こう』なんて思ったよ。

 信仰心ってのは、案外簡単に芽生えるもんだ。

 でもよ、神様は残酷だったよ。すぐに俺の信仰心を試してきやがった。


 扉の外から声が聞こえてきた。明らかに女の声だ。それも複数。

 そう、俺は必死過ぎて、女性用トイレに駆け込んでしまったわけだ。

 今、俺がこのまま外に出たら、社会的に終わるだろう。

 電車の中でぶちまけて尊厳を失った方が傷は浅かったかもしれないくらいだ。


 コンコン……って、遠慮がちなノックの音が響く。

 冷や汗を流しながら、俺もノックで応じる。

 出社時間が刻一刻と迫る。消えない人の気配。


 俺は心の中で祈ったよ。

『一生に一度のお願いです。どうかこの状況を無事に切り抜けさせてください』と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神の気まぐれと遊び心 羽鐘 @STEEL_npl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画