攻略法で書かれた小説に、血は通っているか

王堕王

第一の読者は小説家である

 深夜、机の上の端末を睨みつけている。青白い光が私の顔を照らし、そこには「PV」だの「★」だの「ランキング」だのといった、不気味な数字の羅列が躍っている。かつて私が握っていた万年筆の重み、インクが紙に吸い込まれる際のかすかな摩擦音、それらはどこへ消えたのか。今の執筆者たちは、物語を書いているのではない。数字という名の幽霊を追いかけ、その幽霊に気に入られるための「餌」をばら撒いているに過ぎないのではないか。


 カクヨム。この広大な物語の墓場であり、同時に揺りかごでもある場所で、我々は日々、自らの臓腑を引き摺り出し、それを「作品」と称して大衆の前に晒している。だが、問いたい。その晒された臓腑は、本当にあなた自身のものか。それとも、誰かが決めた「売れるレシピ」通りに合成された、無機質な代用肉ではないのか。


 ランキングの上位を見よ。そこには「異世界」だの「追放」だの「婚約破棄」だのといった、判で押したような言葉が並んでいる。誤解しないでほしい。私はそれらのジャンルを否定しているのではない。私が嘆いているのは、それらの言葉が「表現」ではなく「検索ワード」として機能しているという事実だ。読者が検索窓に言葉を打ち込み、自分が期待した通りの快楽を、期待した通りのスピードで提供される。それはもはや文学ではない。自動販売機による情報の配給だ。我々は自動販売機の中身を補充する作業員に成り下がってしまったのか。


 かつて文学は、読者の予想を裏切り、彼らの安穏とした生活を土足で踏みにじるための凶器だった。ページをめくる指が震え、読後、世界の色が変わって見える。それこそが言葉の魔力であったはずだ。しかし、現代の「読まれるための技術」は、読者を不快にさせないこと、読者の理解力を超えないこと、読者のストレスを最小限に抑えることを至上命令としている。


 自問せよ。お前は読者の背中をさするためにペンを取ったのか。それとも、読者の胸に、一生抜けない棘を突き刺すために取ったのか。もし前者であるならば、今すぐその筆を折り、マッサージ師にでも転向するがいい。文学とは、もっと残酷で、もっと高潔な、魂の殺し合いでなければならないのだ。


***


 最近の指南書を開けば、決まってこう書いてある。「三行で内容を説明せよ」「冒頭で読者の心を掴め」「難しい言葉は使うな」。ああ、なんと浅ましい。なんと傲慢な要求か。我々の人生は三行で説明できるほど単純か? 人間の心の機微は、冒頭の数ページで全てを曝け出せるほど薄っぺらなものか?


 「わかりやすさ」は、現代における最大の美徳とされている。しかし、文学において「わかる」ということは、しばしば「誤解」の別名である。本当の痛み、本当の孤独、本当の愛。それらは言葉にしようとした瞬間に指の間からこぼれ落ちていく、名付けようのない何かであるはずだ。それを無理やり「わかりやすい言葉」の枠に押し込む行為は、生きた蝶を標本箱に閉じ込めるのと同じことだ。翅の色は残るだろうが、そこから生命の羽ばたきは失われる。


 読者は、理解できないものに直面したとき、初めて「思考」を始める。「これはどういう意味だろう」「なぜこの男はここで沈黙したのだろう」。その迷いこそが、読者と作者が魂を交感させる神聖な領域なのだ。今の書き手たちは、その神聖な迷いを、親切心という名の刃で削ぎ落としてしまった。読者に一切の労力を払わせず、口元まで物語を運んでやり、噛み砕いて飲ませてやる。そんなことを繰り返していては、読者の精神は退化し、我々の言葉は単なる記号に成り果てる。


 自答せよ。お前が書いたその文章に、読者が立ち止まり、天を仰ぎ、しばし呆然とするような「深淵」はあるか。一読して全てが理解できる文章は、裏を返せば、二度読む価値のない文章である。私は、読者を迷わせたい。言葉の霧の中に誘い込み、そこで自分自身の影と対峙させたい。それができないのであれば、私は沈黙を選ぶ。饒舌な空虚ほど、文学を汚すものはないからだ。


***


「才能がなくても書ける」「この法則に従えば人気作になれる」。カクヨムの片隅で囁かれるこれらの誘い文句は、執筆者にとっての甘い毒薬だ。確かに、物語には型がある。古今東西、語り継がれてきた神話や伝説には、共通する構造が存在する。しかし、その「型」を「テンプレート」として利用し始めたとき、創作は「製造」へと堕落する。


 なぜ、皆が同じような物語を書くのか。それは、その方が「安全」だからだ。失敗するリスクが少なく、一定の評価(という名の数字)が保証されている。だが、文学とは本来、最も「不安全」な行為ではなかったか。自らの内面に潜む狂気や醜悪さを引き摺り出し、それを白日の下に晒す。そこには常に、誰にも理解されないかもしれない、誰からも拒絶されるかもしれないという恐怖が伴う。


 テンプレートに身を委ねることは、安楽椅子に座って夢を見ているようなものだ。そこには、真の意味での「発見」はない。私が書きたいのは、椅子から転げ落ち、泥にまみれ、自分の骨が折れる音を聞くような物語だ。予定調和のハッピーエンディング、都合の良い救済、整合性だけが取れたプロット。そんなものは、現実の残酷さの前では何の役にも立たない。


 今の文学に必要なのは、整合性ではなく「必然性」だ。たとえプロットが破綻していようとも、そこに作者の「書かねば死ぬ」という切実な叫びがあるならば、それはテンプレートに沿った秀作よりも遥かに価値がある。お前は、自分の物語を、誰にでも代わりが務まる「役職」のように扱っていないか。その物語は、世界中で、他の誰でもない、お前にしか書けないものなのか。もし、誰か別の人間が同じテンプレートを使って書けるようなものなら、お前が書く必要はない。紙の無駄であり、時間の無駄であり、何よりお前の人生の無駄だ。


***


「★が欲しい」「レビューが欲しい」「ランキングに入りたい」。その欲求を否定はしない。書くことは孤独な作業だ。暗い海に向かって小石を投げ続けるようなものだ。誰かがその波紋に気づいてくれることを願うのは、人間の本能と言ってもいい。  だが、その「承認」を目的とした瞬間、お前の筆先は鈍り始める。


 他人の顔色を伺いながら書く文章には、毒がない。毒のない文章は、薬にもならない。多くの人に愛されようとすればするほど、お前の言葉は角が取れ、丸くなり、やがて誰の心にも引っかからない滑らかな石ころになる。文学とは、他者との調和ではない。他者との「決裂」から始まるものだ。「私はこう思う、だが世間は違う。だから書くのだ」。その孤高の精神こそが、凡百の文章を文学へと昇華させる火種となる。


 カクヨムのランキングに君臨する者たちを羨むな。彼らは彼らの戦場で、数字という神に仕える司祭として立ち振る舞っているのだ。お前が目指すべきは、祭壇の上ではなく、教会の裏手の暗い森の中だ。そこには、誰にも見向きもされないが、千年の時を超えて輝き続ける真実の欠片が落ちている。  


 自問せよ。もし、この世に読者がたった一人もいなくなったとして、それでもお前は、その物語を書き続けるか?もし、誰からの称賛も得られず、ただ自分自身の魂を慰めるためだけに書くのだとしたら、お前は何を綴る?その「最後の一行」こそが、お前の真実だ。それ以外の余計な飾りは、全て捨て去れ。


***


 我々は今、指先ひとつで言葉を「生成」している。キーボードを叩き、あるいはスマートフォンの画面をなぞり、瞬く間に文章が積み上がっていく。この速度、この軽便さ。それこそが文学を堕落させた元凶のひとつではないか。


 かつて、書くことは「肉体労働」であった。原稿用紙の升目を埋めるたび、ペン先は磨り減り、右手の側面にインクの汚れがこびりついた。一文字を書くという行為には、物理的な「抵抗」があった。その抵抗こそが、思考に「重力」を与えていたのだ。言葉を消すためには、二本線を引き、あるいはインク消しで紙を削らねばならなかった。その跡は醜く残り、書き手の迷いを雄弁に物語った。しかし、現代のデジタルな執筆環境において、言葉は「デリートキー」ひとつで跡形もなく消え去る。この「消去の容易さ」が、言葉に対する責任感を希薄にさせてはいないか。


 自問せよ。お前が打ち込んだその言葉に、体温はあるか。画面上の文字は、どれほど美しく整えられていても、どこか無機質な記号に過ぎない。私は時折、自分の書いた文章を声に出して読んでみる。すると、呼吸の乱れや、リズムの不自然さが露わになる。言葉とは本来、肺から出た空気が声帯を震わせ、肉体を通じて発せられるものだ。今の執筆者たちの多くは、視覚だけで文章を組み立てている。だからこそ、表面的な「読みやすさ」だけが追求され、魂を揺さぶるような「うねり」が失われてしまうのだ。


 お前の文章を、一度紙に書き写してみるがいい。そのとき、自分の言葉がいかに軽薄で、空虚な響きを持っているかに驚愕するだろう。肉体を伴わない言葉は、ただの情報の断片だ。風が吹けば飛び散る塵のようなものだ。私は、読者の胃の腑にずしりと残るような、質量を持った言葉を書きたい。そのためには、便利すぎる道具を捨て、あえて不自由な思考の迷路を彷徨わねばならない。


***


 カクヨムに溢れる物語の多くは、他の物語から「引用」された断片で構成されている。アニメで見たような設定、ゲームで体験したようなシステム、ネット掲示板で読んだようなエピソード。それらを器用に繋ぎ合わせれば、確かに「それらしいもの」は出来上がる。だが、そこには「生活の匂い」がない。


 文学とは、虚構の形を借りた「真実の報告書」であるはずだ。お前が今日、道端で見た老婆の腰の曲がり方。夕暮れ時の、言いようのない不安な空の色。誰にも言えない、卑屈で醜い嫉妬の感情。それら「現実の断片」を、物語という血肉の中に一滴ずつ混ぜ込んでいく。その一滴こそが、作り物に命を吹き込む「劇薬」となるのだ。


 自答せよ。お前は現実から逃げるために書いているのか、それとも現実と戦うために書いているのか。異世界へ逃避するのは勝手だ。だが、その異世界においても、人間は腹を空かせ、傷つき、排泄し、死ぬはずだ。そこにあるべき「生々しさ」を排除して、美しい外面だけをなぞる行為を、私は「文学の去勢」と呼ぶ。読者が求めているのは、安っぽい慰めではない。


 「ああ、この作者も私と同じように、どうしようもない絶望を抱えて生きているのだ」


という、共犯者としての連帯感だ。その連帯感は、作者が自らの傷口を隠さず、そこから流れる血をインクにして書いたときにのみ生まれる。綺麗事だけの物語は、プラスチックの造花と同じだ。枯れることはないが、香りもしない。私は、泥にまみれ、やがて腐り果てるとしても、強烈な香りを放つ「生の言葉」を尊ぶ。


***


 カクヨムという場所には、独特の「村社会」が存在する。「自主企画」に顔を出し、互いの作品に星を付け合い、お愛想のレビューを書き合う。なるほど、それは孤独な創作活動における一時の清涼剤にはなるだろう。だが、断言する。その「馴れ合い」こそが、お前の才能を枯渇させる最も効率的な方法だ。


 創作とは、本質的に「孤独な狂気」である。 自分の中にしか存在しない宇宙を、誰にも理解されないかもしれないという恐怖に耐えながら、一人で形にしていく。その孤独を紛らわすために他者の承認を求め始めたとき、お前の視線は「内なる深淵」から「他人の顔色」へと逸れてしまう。「こう書けば、あの人は喜んでくれるだろうか」「これを書いたら、角が立つのではないか」。そうした卑屈な配慮が、お前の文体を凡庸なものへと変えていく。


 自問せよ。お前は作家になりたいのか、それとも「物書き仲間」が欲しいだけなのか。もし後者なら、今すぐ筆を置いてSNSの雑談に興じるがいい。だが、もしお前が真に言葉の力を信じているのなら、一度全ての繋がりを断ち、独りになれ。    「相互評価」で積み上げられたランキングの数字など、砂上の楼閣に過ぎない。  本当の評価とは、お前の名前も知らない、お前と何の利害関係もない見知らぬ誰かが、深夜の静寂の中で、お前の文章を読んで涙を流したり、激しい怒りを覚えたりすることだ。そのためには、誰にもおもねらず、誰にも媚びない、孤高の魂を維持せねばならない。孤独を抱きしめろ。その寒さこそが、お前の言葉を鋭く研ぎ澄ます砥石となるのだ。


***


 時代は変わった。今や、人工知能なるものが、人間以上に流暢な文章を書くという。整合性の取れたプロット、美しい語彙の選択、読者の好みに合わせた展開の予測。それらにおいて、我々人間が機械に勝てる日は二度と来ないだろう。では、我々が書く意味はどこにあるのか。


 それは、「恥」を晒すことにある。機械には、恥という概念がない。自らの過ちを悔い、過去の自分を呪い、あるいは己の無能さに絶望してのたうち回る。そんな「非合理な痛み」を、機械は模倣できても、実感することはできない。文学の歴史とは、人間がいかに愚かで、いかに救いがたく、そしてそれゆえにいかに愛おしいかを、延々と書き連ねてきた歴史だ。自答せよ。お前は「完璧な文章」を目指しているのではないか。もしそうなら、お前は早晩AIに敗北するだろう。私が読みたいのは、完璧な文章ではなく、作者の「叫び」が溢れ出し、文体さえも破壊してしまったような、不器用な絶唱だ。 論理では説明できない行動、道徳では許されない感情。それらを、自身の「恥部」として晒し出すこと。


 「こんなことを考えてしまう自分は、人間失格ではないか」


 その震えるような自覚こそが、人間にしか書けない物語の源泉となる。AIは「正解」を提示するが、文学は「問い」を突きつける。「人間とは、これほどまでに醜く、孤独なものではないのか」と。その問いかけに、答えなどなくていい。ただ、その問いを共有すること。それこそが、機械には成し得ない、魂の交歓なのだ。


***


 インターネット上の物語は、消費されるスピードが異常に速い。  今日投稿された新作は、明日には膨大な情報の波に飲み込まれ、忘れ去られる。執筆者もまた、そのスピードに追いつこうと、質よりも量を、深みよりも刺激を優先する。だが、考えてもみろ。お前が心から敬愛するあの名作は、そんなスピードで書かれたものか? あるいは、そんなスピードで忘れ去られるものか?


 私は、百年前の人間が書いた言葉に、今なお胸を打たれることがある。それは、その言葉が「その場しのぎ」ではなく、時代を超えて普遍的な「人間の真理」を突いているからだ。現代のトレンドに合わせ、流行の言葉を使い、読者の機嫌を取る。そんな文章は、一年後には古臭いゴミ同然になるだろう。


 自問せよ。お前の書いたこの一行は、百年後の誰かの心に届くか。途方もない問いに聞こえるかもしれない。だが、その覚悟がなければ、わざわざ貴重な人生を削ってまで文章を書く価値などない。PVの推移に一喜一憂するのは、株の売買と同じだ。それは「商売」であって「創作」ではない。私は、たとえ現代の誰にも理解されなくても、遠い未来の、まだ見ぬ孤独な読者のために種を撒きたい。時代に消費されるな。時代を突き抜ける言葉を探せ。その道は険しく、報われないかもしれない。だが、その先にしか、言葉の不死性は存在しないのだ。


***


 随分と長く喋りすぎてしまったようだ。青白い画面の数字は、相変わらず無機質な光を放っている。だが、今の私には、それがただの空虚な記号にしか見えない。    お前に、最後の問いを授けよう。お前は今、幸せか。「読まれること」に怯え、「評価されること」に渇き、数字という鎖に繋がれた状態で、本当に書くことの喜びを感じているか。もし苦しいのであれば、一度全てを捨ててしまえ。ランキングを離れ、評価を忘れ、ただ自分のためだけにペンを執れ。誰も見ていない暗闇の中で、自分自身の魂と対話するように、一文字ずつ刻み込め。そのとき、お前は再び、書くことの本当の恐ろしさと、そして何物にも代えがたい「自由」を手にするだろう。


 画面を閉じろ。深呼吸をしろ。そして、目の前に広がる「白紙」という名の深淵を、じっと見つめろ。そこには、数字も、テンプレートも、他人の声もない。あるのは、お前の魂と、これから生まれるべき、唯一無二の言葉だけだ。


 ……さあ、書くがいい。

 お前が、お前自身を救うための、真実の物語を。

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