第三話:特異点の証明

 夕飯の煮込みハンバーグは、完璧だった。

 肉の挽き具合、ソースの酸味、付け合わせの野菜の歯ごたえに至るまで、僕の舌が今この瞬間に求めていたものと、分子レベルで一致しているような錯覚を覚える。  向かい側に座る結衣姉さんは、僕がスプーンを動かす様子を、聖母のような慈しみをもって見つめていた。


「……姉さん。このハンバーグ、隠し味は結局何だったの?」


「ふふ、秘密。でも、貴方の今日の疲労度なら、少しだけナツメグを強めにして、赤ワインの渋みを飛ばした方がいいかなって思っただけよ」


 彼女は自分の分にはほとんど手をつけず、ただ僕というシステムが栄養を取り込み、平穏を取り戻していく過程を観察しているようだった。

 食後、姉が食器を下げに立った隙に、僕は彼女がリビングに置き忘れた一冊のノートを手に取った。

 それは、ごく普通の、どこにでも売っているスケジュール帳だった。


 だが、中身は異質だった。


 そこには彼女自身の予定など一行も書かれていなかった。代わりに綴られていたのは、僕の数年間にわたる「記録」だった。

 起床時間、家を出る際の靴の選び方、その日の気温と僕の歩幅の相関関係、視線が向いた看板の内容、そして――僕が誰と、何秒間会話をしたか。

 それらは記号化され、幾何学的な図形のように整然と並んでいた。


「……見てしまったのね」


 背後から、衣擦れの音とともに、おだやかな声がした。

 振り返ると、結衣が淹れたての紅茶を盆に載せて立っていた。彼女の表情に動揺はない。むしろ、長年の研究成果をようやく正当な理解者に披露できることを喜んでいるような、清々しい微笑だった。


「これは、何だい。……ストーカーの記録か?」


「そんな、物騒な言葉で片付けないで。これはね、私の『祈り』の集積なのよ」


 結衣は僕の隣に腰掛け、ノートのページを優しく撫でた。


「貴方は自由を愛しているけれど、自由ほど残酷なものはないわ。何を選べばいいか、どこへ行けばいいか、常に迷い続けなければならないもの。だから私は、貴方の周りから『不確定要素』を取り除いてあげたかったの」


 彼女は僕の肩に手を置き、耳元で囁く。その声は、深海に沈んでいくような心地よい重力を持っていた。


「GPSなんて不正確なものは使っていないわ。そんなものに頼らなくても、貴方の過去を正しく積み上げれば、貴方の未来という一点は自ずと導き出される。今日、貴方が迷子になろうとした場所もそう。貴方の脳が『最も予測されにくい』と判断する座標を、私はあらかじめ知っていただけ」


 僕は言葉を失った。

 僕が自分の意志で選び、歩んできたと思っていた道は、彼女が用意したキャンバスの上に引かれた一本の線に過ぎなかった。

 僕が誰かと親しくなろうとすれば、彼女はその「ノイズ」を事前に取り除き、僕が何かに躓きそうになれば、彼女が「偶然」を装って手を差し伸べる。


「貴方は、私という特異点を中心に回る星なのよ。……ううん、私の世界を完成させるための、最後の一片」


 彼女の手が、僕の頬を滑り、首筋に触れた。

 その指先は驚くほど確かで、僕の動脈の拍動を一つ残らず数え上げているようだった。


「これからは、もう迷わなくていいわ。貴方が何を欲し、何に絶望するか、すべて私が先に体験して、濾過して、綺麗なものだけを貴方に届けてあげる。貴方の人生は、私が責任を持って『正しい解』へと導いてあげるから」


 差し出された紅茶からは、僕が最もリラックスできるはずの香りが立ち上っていた。

 僕はそれを拒むことができなかった。

 彼女の論理はあまりに強固で、彼女の愛はあまりに純粋だったからだ。


 この透明な檻から出たところで、僕はまた、自分という不確実な存在に振り回されるだけだろう。それならば、彼女という完璧な観測者の下で、一滴のノイズもない平穏に身を浸している方が、どれほど「合理的」だろうか。


「……ねえ、姉さん。明日の僕の予定は、もう決まっているのかい?」


 僕の問いに、結衣は花が綻ぶように笑った。

 それは、世界で一番美しく、そして救いのない微笑みだった。


「ええ、もちろん。貴方は明日、いつもより少しだけ遅く起きて、私の作ったオムレツを食べて、そして……心から『幸せだ』と呟くことになるわ。……楽しみにしていてね」


 僕は目を閉じ、温かい紅茶を口に含んだ。

 予測された未来。予定された幸福。

 僕は今、確かに自由を失った。だが、それと引き換えに、彼女の幾何学という名の、永遠に変わることのない愛を手に入れたのだ。


 窓の外では、彼女が予言した通りの静かな雨が降り始めていた。


(完)

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必然的な幾何学、あるいは予定された偶然について 淡綴(あわつづり) @muniyu

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