第二話:動線の攪乱
自由意志というものは、案外脆い土台の上に成り立っている。
僕たちは自分が「自発的に」右へ曲がり、あるいは「気まぐれに」この店に入ったと思っている。しかし、そこには必ず直前の事象によるバイアスがかかっているはずだ。昨夜見たテレビ番組、さっきすれ違った人の香水の匂い、あるいは血糖値のわずかな低下。
もし、それらすべての変数を収集し、演算できる人間がいたとしたら。
僕の「気まぐれ」は、ただの「既定事項」に成り下がる。
「……試してみる必要があるな」
大学のラウンジで、僕はノートの端に無意味な数式を書きなぐりながら、独りごちた。
結衣姉さんのあの穏やかな微笑み。僕が雨に濡れる直前に差し出された傘。あれをただの直感や偶然で片付けるには、あまりに幾何学的な整合性が取れすぎていた。 僕は、自分の行動から「意味」を排除することにした。
放課後。僕はいつも通る駅の改札を通り過ぎ、あえて三駅先まで歩くことにした。 ルートの選択には、スマートフォンの乱数生成アプリを使用した。交差点に差し掛かるたびに画面をタップし、偶数なら右、奇数なら左、素数なら直進。
僕自身の意志を一切介在させない「ランダム・ウォーク」。
これなら、いくら僕の癖を知り尽くしている姉さんでも、僕の居場所を特定することは不可能なはずだ。
一時間後。僕は自分がどこにいるのか、完全に見失っていた。
迷い込んだのは、古びた倉庫が並ぶ臨海近くの工業地帯だった。スマートフォンの地図を見れば現在地はわかるだろうが、僕はあえて電源を切った。GPSによる追跡を警戒したわけではない。ただ、文明の利器という「論理」を捨てることで、完全なノイズになりたかった。
潮風が湿り気を帯び、錆びた鉄の匂いが鼻を突く。
人通りは絶え、街灯のいくつかは切れたまま放置されている。
……少し、やりすぎたかもしれない。
不安が胸の奥で小さな波紋を広げ始めた、その時だった。
「あら、そんなところに座り込んで。お洋服が汚れてしまうわよ?」
背後から、聞き慣れた、おだやかな声がした。
心臓が跳ね、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
ゆっくりと振り返ると、自販機の微かな光に照らされて、結衣姉さんが立っていた。
彼女は片手に、僕が普段愛飲しているスポーツドリンクのボトルを二本、持っていた。
「……姉さん。……どうして」
「ふふ、どうしてかしらね」
彼女は僕の隣に歩み寄り、当然のようにコンクリートの縁に腰を下ろした。
「喉、渇いたでしょう? はい、これ。冷たいうちにどうぞ」
差し出されたボトルを受け取る。指先に触れる冷気が、僕の動揺を静めるどころか、さらに深い恐怖へと誘う。
「……僕は、自分でもどこに行くか決めてなかったんだ。アプリを使って、完全にランダムに歩いた。姉さんにわかるはずがない」
「ええ、そうね。貴方はとても頑張って『ノイズ』になろうとしていたわ。右、左、直進……。とても可愛らしい迷子だった」
結衣は僕の顔を覗き込み、母親が幼子をあやすような、慈しみに満ちた瞳で微笑んだ。
「でもね、貴方は一つだけ忘れているわ。貴方が『乱数に身を委ねる』という選択をしたこと自体が、私にとっては予測可能な変数の一つに過ぎないのよ」
「どういうことだよ」
「貴方は追い詰められると、論理に逃げる癖があるでしょう? 私の先回りを回避するために、貴方が自分の意志を捨てることは十分に予見できた。そうなれば、あとはこの街の区画整理のパターンと、歩行者の平均的な心理的障壁を組み合わせるだけ」
結衣は僕の肩に、そっと頭を預けた。
彼女の髪から漂う香りが、潮の匂いを塗りつぶしていく。
「貴方は、行き止まりを嫌って広い道を選び、無意識に海が見える方向へと引き寄せられた。……このエリアで、ランダムに歩いた人間が最後に辿り着く特異点は、ここを含めて三箇所しかなかったの。私は、その中で一番景色のいい場所で待っていただけよ」
それは、暴力的なまでの知性だった。
彼女にとって、僕の足掻きさえもが計算式の中の一行に過ぎない。
僕が自由になろうとすればするほど、彼女の構築した理論の正しさを補強するデータになってしまう。
「……帰ろうか。お夕飯、貴方の好きな煮込みハンバーグを作っておいたの。あと十五分で帰れば、ちょうど味が染み込んで食べ頃になるはずだわ」
結衣は立ち上がり、僕に手を差し出した。
その手を取らなければならないことを、僕は本能で理解していた。
いや、僕がこの手を取ることも、そしてその後で僕がどんな顔をしてハンバーグを口にするかも、彼女はすでに知っているのだろう。
僕は彼女の手を握った。
温かく、柔らかく、そして絶対的な力強さを持ったその手を。
帰り道、並んで歩く姉の背中を見つめながら、僕は気づいた。
僕がどれだけ攪乱を試みようと、彼女という中心点から離れることはできない。 この「偶然」を装った「必然」は、僕が彼女の愛を完全に受け入れるまで、幾度となく、より精緻に繰り返されるのだ。
「ねえ、姉さん」
「なあに?」
「……ハンバーグの隠し味、今日は何?」
「ふふ。それは食べてからのお楽しみ。貴方が『美味しい』って言ってくれる確率、九十九パーセントって出ているわよ?」
彼女の軽やかな笑い声が、夜の工業地帯に溶けていく。
僕は、彼女の計算通りの歩幅で、彼女の用意した幸福へと引き戻されていった。
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