必然的な幾何学、あるいは予定された偶然について
淡綴(あわつづり)
第一話:確率論的否定
世界を構成する事象の多くは、確率論という名の薄い膜によって守られている。
道端で知人に会う。不意に雨に降られる。あるいは、自動販売機で最後の一本を買い損ねる。
僕たちはそれらを「偶然」という便利な言葉で処理し、思考の停止を正当化している。だが、もしその確率が、数学的な閾値を越えて収束し始めたとしたら、それはもはや偶然ではなく、何らかの意志が介在した「設計」と呼ぶべきではないだろうか。
「あら、奇遇ね。こんなところで会うなんて」
おだやかな、春の風のような声だった。
夕闇が迫る駅前のロータリー。僕が塾のバイトへ向かう途中の、何の変哲もない交差点。そこに、姉の結衣が立っていた。
彼女は薄手のカーディガンを羽織り、買い物袋を提げている。その立ち姿はあまりに自然で、街の風景に溶け込んでいた。
「姉さん。……買い物? 家とは逆方向じゃないか」
「ええ。こっちのスーパー、今日はお豆腐が安いの。夕飯は麻婆豆腐にしようと思って」
結衣はふんわりと微笑む。
彼女は僕より三つ年上で、昔から僕の良き理解者だった。性格は穏やかで、声を荒らげたことなど一度もない。僕が幼い頃に転んで膝を擦りむいた時も、彼女は泣きもせず、ただ静かに傷口を洗い、最も痛くない角度で絆創膏を貼ってくれた。
「そっか。……僕は今からバイトなんだ」
「わかってるわ。六時半からでしょう? まだ十分あるから、そこまで一緒に歩きましょうか」
結衣は僕の隣に並んだ。
彼女の歩調は、驚くほど僕に合っている。速すぎず、遅すぎず。
僕が信号を気にして無意識に足を速めれば、彼女もまた、呼吸を合わせるように歩幅を変える。
その同期(シンクロ)の精度の高さに、僕は心地よさと、正体不明の薄ら寒さを同時に感じていた。
「……ねえ、結衣姉さん」
「なあに?」
「最近、外でよく会うよね。一昨日の図書館でも、先週の駅のホームでも」
「ふふ、そうね。きっと、私たちの波長が合っているのね。ほら、血の繋がった姉弟ですもの」
彼女は事もなげに言う。
だが、僕の頭の中では、冷静な論理が働き始めていた。
僕の行動範囲と姉の行動範囲が重なる確率は、彼女が提示した「特売の豆腐」や「偶然の遠回り」という変数だけでは説明がつかない。一ヶ月に一度なら偶然だろう。週に三回となれば、それは統計学的な異常値だ。
「雨、降ってきたわね」
結衣が空を見上げるのと、僕の頬に冷たいものが当たるのは同時だった。
予報では晴れだったはずだ。傘を持っていない僕は、思わず駅の軒下へ駆け込もうとした。
「大丈夫よ。はい、これ」
彼女は買い物袋の中から、折りたたみ傘を取り出した。
……それも、僕が一番気に入っている、紺色の軽量傘だ。
「これ、僕の……。どうして持ってるの?」
「今朝、玄関に置いてあったから。今日の湿度は朝から少し高かったし、夕方には雲の形が変わると思って。念のために鞄に入れておいたのよ。役に立ってよかった」
結衣は傘を広げ、僕の頭上に差し出す。
彼女の距離が、一歩近くなる。
傘の下という密閉された空間で、彼女が使っている柔軟剤の、清潔で、どこか薬学的な香りが僕の鼻を突いた。
「姉さんは、いつも僕の欲しいタイミングで、欲しいものを持っているよね」
「そうかしら。それはきっと、私が誰よりも貴方のことを見ているからよ。貴方が次に何を考え、どこで立ち止まるか。……お姉ちゃんには、手にとるようにわかるの」
彼女の瞳は、どこまでも深く、澄んでいた。
そこに狂気のような濁りはない。あるのは、純粋で、揺るぎない、深すぎるほどの慈愛だ。
「世界はね、とても複雑に見えて、実はとても単純な法則で動いているのよ。貴方の歩幅、視線の動き、選ぶ道。それらを丁寧に拾い集めていけば、次に貴方がどこにいるか、座標を導き出すのはそれほど難しくないわ」
結衣の手が、傘の柄を握る僕の手の上に、そっと重ねられた。
彼女の指先は驚くほど温かく、それでいて、僕の手首を物理的に拘束するかのような確かな重みがあった。
「貴方は自由よ。でも、貴方の自由は、私の手のひらの上で描かれる幾何学模様の一部でしかないの。……安心なさい。貴方が道に迷わないように、私がいつも正しい場所で待っていてあげるから」
偶然という名の膜が、音もなく剥がれ落ちていく。
剥がれた後に現れるのは、結衣姉さんによって完璧に設計され、予言された「幸福な檻」だった。
僕はその時、気づいてしまった。
僕が彼女に出会うのは、僕が歩いているからではない。
彼女が、僕という不確定要素を「予定された解」へと収束させるために、この世界のすべての確率を書き換えているからなのだ。
雨音は次第に強くなり、傘の下の静寂をより際立たせていく。
僕は、彼女の穏やかな微笑みの奥に潜む、透明な執着の重力に、ただ身を委ねるしかなかった。
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