転生したら王家の競走馬でした――元ジョッキーですが、今度は自分が走ります

@azerostudio

第1話 ―― ゴールの向こう側

蹄が地面を叩く音が、耳鳴りのように続いていた。

砂が舞い、声が渦を巻き、視界の端では色とりどりの旗が揺れている。


名前を呼ばれている。

何度も、何度も。


私は馬上で姿勢を低くした。

視線の先にあるのは、一本の白線。


ゴール。


見慣れたはずの景色だ。

これまで、数え切れないほど通過してきた。


――それなのに。


胸の奥が、落ち着かない。

鼓動が速い。

理由が分からない。


負ける不安とは違う。

もっと、嫌な感覚。


首の後ろを、冷たい何かが撫でていく。


「大丈夫だ、ランサー」


私は声を落とし、首筋を叩いた。

馬は短く息を鳴らす。

いつも通りだ。強くて、素直で、信頼できる相棒。


風が裂ける。

頬が痛む。

目の端が、少し熱くなる。


それでも、口元は自然と緩んでいた。


走ること。

危険と隣り合わせでいること。

すべてを振り切る感覚。


――これが、私の人生だった。


ゴールを越えるまでは。


次の瞬間、感触が変わった。

わずかな滑り。

そして、前に崩れる衝撃。


視界が回転する。


体が浮いた。


歓声が、悲鳴に変わる。


鈍い衝撃。


地面が、私を叩き返した。

息が詰まり、痛みが遅れて爆発する。


まだ見えていた。

暴れる尾。

必死に立ち直ろうとする、あの背中。


――そして。


白。


音も、感覚も、すべてが薄れていく。


気づけば、周囲は騒然としていた。

人が走る。

誰かが叫ぶ。


砂に混じる血の匂い。

体は重く、指一本動かせない。


ぼやけた視界の先で、ゴールラインだけが、妙にくっきりと残っていた。


……最後まで、そこを見るんだな。


私は四十四歳で死んだ。


家庭は持たなかった。

残したのは、成績と名前だけ。


葬儀には、多くの人が来た。

教えを受けた人間。

共に走った人間。

金を出してくれた人間。


「伝説だった」


そう言われた。


でも誰も、知ろうとしなかった。

走る以外に居場所を持たなかった人生が、どれほど空っぽだったかを。


「幸せな最期だ」


その言葉は、どこか途中で途切れている気がした。


雨が降り始める。


――そこで、私は目を開けた。


暗くない。

狭くもない。


夕焼けに染まる庭園。

風が穏やかで、草が揺れている。


違和感があった。


地面に触れている感覚が、人間のそれじゃない。


前方に、一頭の白い馬がいた。


痩せている。

毛並みは鈍く、後ろ脚の一本が失われている。


立派だったはずの馬。

けれど、もう走れない。


目が合った。


その瞳には、諦めとも違う、深い疲れがあった。


胸が、締めつけられる。


「……ごめんね」


自然と、そんな言葉が零れた。


「君は、まだ走れたはずなのに」


白い馬は一度だけ瞬きをし、何も言わず背を向ける。

脚を引きずりながら、夕闇へと溶けていった。


その背中が、やけに近く感じた。


視界が滲む。

心臓が、再び強く打ち始める。


ああ――そうか。


私は、あれを見ていたんだ。


白が、すべてを覆った。

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2026年1月12日 16:00
2026年1月16日 16:00
2026年1月19日 16:00

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