第2話『神様のオーダー』

「……はあ」


 俺は深く、重たい溜息を吐いた。

 目の前には、空腹でうずくまり、半透明になりかけている自称・神様。


 普通なら、「うわっ、幽霊!」と腰を抜かすか、悲鳴を上げて逃げ出す場面だ。相手は透けているし、明らかにこの世のことわりから外れている。

 

 だが、今の俺は妙に冷静だった。恐怖心など、欠片も湧いてこない。

 

 それもそうだろう。登場早々に賽銭箱から転げ落ち、偉そうな口上を垂れたそばから腹の虫を鳴らす。この子どもがあまりにも「ポンコツ」すぎて、怖がるタイミングを完全に見失ってしまったのだ。


「百歩……いや、一万歩譲って、お前が神様やったとしてやな」

 

 俺はしゃがみこみ、彼と目線を合わせる。


「神様が人間にお願いっておかしいやろ。逆やないんか普通、どう考えても」

 

「背に腹は変えられぬ……。信仰なき今、まろを繋ぎ止めるのは、カロリーのみ……」


「お前、そのカロリーっち言葉、どこで覚えてきたんよ……」

 

 ツッコミを入れつつも、俺は彼の輪郭がさっきよりも曖昧になっているのを見て、少し焦りを覚えた。

 本当に消えてしまいそうや。幽霊だとしても、目の前で「消えたくない」と匂わせながら消滅されるのは、寝覚めが悪すぎる。――いや、成仏した方がいいのか。

 

 まぁ、いい。細かいことは、あとや。


「……ほんで、何が欲しいん」

 

 俺が訊ねると、ちっこいのはパァッと顔を輝かせた。現金な自称神様だ。

 

「団子じゃ! 甘くて、もちもちの!」

 

「団子ぉ?」

 

「うむ。三つ……いや、三つと言わず、たくさん所望する!」


 彼は小さな指を三本立てて、必死にアピールしてくる。俺は頭を抱えた。

 

「おま……簡単に言いよるけどな……」

 

 俺は神社の外、薄暗くなり始めた田舎道を指差した。


「ここがどこか分かっとるんか? コンビニまでチャリで片道一時間はかかるっちゃけんな? スーパーも同じような距離やし、今から行って帰ってきよったら……もう日が暮れとるか、下手すりゃ夜中や」


 ここは正真正銘のド田舎だ。

 夜になれば街灯すらまばらで、猪が出るような場所。そんな場所で、急に「団子」なんて指定されても調達できるわけがない。

 

「そ、そんな……。麿は、このまま腹を空かせて、消えゆく運命なのか……?」

 

 ちっこいのがガックリと項垂れる。

 その姿が、余りにもあざとく、そして悲壮感に満ちていて、俺はため息をひとつ落とした。


 実際、冗談抜きで限界なのだろう。

 夕陽を背にしたその体は、さっきよりも明らかに透明度を増していた。輪郭が陽炎のように揺らぎ、背景の木々が透けて見える。まるで、現像に失敗した古い写真みたいだ。

 

「……ちょっと待っとけ」

 

「む?」


「家ば探してくっけん。あるか分からんけど、もしかしたら仏壇に何かあっかもしれん」


 ここで俺が帰れば、こいつは本当に消える。誰にも知られず、誰にも記憶されず、ただ静かに。

 なんとなく、そんな――嫌な光景が目に浮かんだ。

 

「真か!? おお、そなた、良いやつじゃな!」


「なかったら、もう知らんけんな。そげん当てにすんなよ」


 俺は自転車の鍵を取り出しながら、逃げるように背を向けた。背後から「待っておるぞー!」という能天気な声が聞こえてくる。

 

 やれやれ。

 俺はペダルを漕ぎ出しながら、少しだけ苦笑いを浮かべていた。


 *


 神社から続く長い坂を下り、見慣れた――見たくもない我が家の屋根が見えてきた。

 ペダルを漕ぐ足が、自然と重くなる。

 自転車を庭の隅に止め、玄関のドアに手をかけた、その瞬間だった。


「くらっすぞ(ぶん殴るぞ)! 俺が悪いって言いたかとや?!」

 

 二階から、男の怒号と、何か重いものを壁に投げつけたような破裂音が響いてきた。兄貴だ。

 心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

 

 続いて、母さんの「ごめんなさい、ごめんなさい」という、消え入りそうな泣き声。

 

(……ああ、やっぱり)

 

 俺はドアノブを握ったまま、奥歯を噛み締めた。

 

 さっきまで、「神様」なんていうわけのわからない存在と話していた時間が、まるで遠い夢のようだ。


 あいつの、偉そうで、間抜けで、透けかかった姿。あんな非日常に少しだけ気を取られて、現実の重さを忘れていた自分が馬鹿みたいだ。

 

「……ただいま」

 

 誰にも聞こえないような声で呟き、俺は息を潜めるようにして家に入った。

 靴を脱ぎ、音を立てないように廊下を進む。二階の嵐に気づかれないように、俺は空気になる。これはもう、長年染みついた処世術みたいなもんだ。

 

 俺は逃げるように、一階の奥にある仏間へと滑り込んだ。線香の染みついた、薄暗い和室。

 

「……あるとしたら、ここなんやけど」

 

 俺は仏壇の前にしゃがみこみ、供え物の台に目を凝らした。婆ちゃんの月命日が近かったから、何か置いてあるはずだ。

 だが、そこにあったのは――

 

「……なんやこれ」

 

 法事の引き出物で貰ったような、カチカチに硬そうな干菓子ひがし。それと、湿気てそうな醤油煎餅。

 あとは、いつから置いてあるのか分からない、色褪せた饅頭がひとつ。

 

「……団子、ないやん」

 

 当たり前だ。

 こんな殺伐とした家に、あいつが言っていたような「もちもちで、甘い団子」なんて、気の利いたものがあるわけがない。

 

「……はあ」

 

 今日何度目かの溜息が出る。

 ちっこいの、期待して待っとるのに。

 手ぶらで戻ったら、あいつ、今度こそ泣いて消えてしまうんやろか。

 

 想像すると、あの情けない顔が浮かんで、胸の奥がチクリとした。

 

「……自分の部屋、探してみっか」

 

 期待は薄いけど、仏壇の乾ききった菓子よりはマシなものがあるかもしれない。

 俺は足音を殺して、二階の自室へと向かった。


 二階へと続く階段は、今の俺にとって地雷原みたいなもんやった。

 一段、また一段と足を乗せるたびに、兄貴の部屋から漏れ聞こえる怒鳴り声が鼓膜を震わせる。

 

(……頼むけん、出てくんなよ)

 

 心の中で呪文のように唱えながら、俺は兄貴の部屋の前を息を止めて通り過ぎ、自分の部屋へと滑り込んだ。

 

 机の前に座り、引き出しを勢いよく開けた。

 教科書、プリントの山、使い古したペン。

 ガサガサと手探りで奥の方を探る。

 

「……あった」

 

 指先にカサついた感触が触れた。

 引っ張り出したのは、いつ買ったのかも忘れた、板チョコ。銀紙も破れていないし、中身は無事そうだ。

 それと、もうひとつ。

 

「……ラムネか」

 

 プラスチックの容器に入った、粒状のラムネ菓子。

 たしか、テスト勉強の時に糖分補給しようとして買って、そのまま放置しとったやつだ。

 俺は容器を振ってみた。カラカラと、軽い音がする。中身はまだ半分くらい残っている。

 

「……団子やないけど」

 

 手のひらに一粒出してみる。

 真っ白で、丸くて、粉っぽい砂糖の塊。

 

「白いし、丸いし、甘いし……まあ、似たようなもんやろ」


 贅沢は言わせん。今はこれが精一杯の「神饌しんせん」だ。

 

 また壁を蹴るような音が響いた。今度はさっきより大きい。


 ビクリと肩が跳ねる。

 ここに長居は無用だ。チョコとラムネを学生服のポケットにねじ込み、俺は部屋を飛び出した。


 階段を転げ落ちるように駆け下りる。

 母さんの泣き声も、兄貴の怒号も、全部背中に置き去りにして。

 

「行ってきます……」

 

 玄関で小さく呟き、逃げるように外へ飛び出す。

 夕方の湿った空気が、家の中の淀んだ空気よりはずっとマシに感じられた。

 再び自転車に跨り、ペダルを強く踏み込む。

 目指すは、あの寂れた神社。

 

 待たせすぎて、あの半透明のちっこいやつが、完全に透明になっていないことを祈りながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰も願わない神様へ 鎌谷 琶 @kamatani_be

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る