誰も願わない神様へ
鎌谷 琶
第1話『願わない少年と、願われない神様』
俺は今日も、誰にも気づかれないように、雑草に覆われ、角が欠けた石段をのぼった。
下校時間より少し遅れて、夕焼けに混じる風が涼しくなる頃。誰もいないこの時間だけが、少しだけ息をしやすい。
登りきった先に広がる境内は、酷く荒れている。膝丈まで伸びた雑草が石畳を覆い隠し、風が吹くたびにカサカサと乾いた音を立てる。鳥居の朱色はとうに剥げ落ち、二対の狛犬は片方の顔が欠けて深い苔に覆われていた。
ここは、たぶんもう誰も来ない神社だ。
本来なら神域であるはずの場所が、今はただの朽ちかけた廃墟でしかない。
なのに、俺はほぼ毎日ここに立っている。
傾きかけた拝殿の前まで進み、財布から一円玉を取り出して、ぽとりと箱に落とす。底が抜けかけた賽銭箱の中で、カラン、という音が静かに響いた。
錆びついた鈴緒を揺らし、俺は手を合わせる。
瞼を閉じる。でも、頭の中に浮かべる言葉は何もない。
(……特になし、と)
神様なんてものが本当にいるなら、失礼極まりない参拝客なんやろうか。けど、俺には願いがない。いや、「願ってはいけない」と言った方が正しいかもしれん。
家に帰れば、カーテンを閉め切った部屋から兄貴の怒鳴り声が聞こえてくるやろうし、母さんはまた台所で泣いているかもしれんし……。
父さんが蒸発してから、空気の重さは増すばかりや。
もし俺が「幸せになりたい」なんて願ったら、その分、家族の誰かがもっと不幸になる気がする。
幸福の総量が決まっているなら、俺はパスだ。余計な期待もしないし、失望もしない。それが一番、傷つかない。
俺にとってこの廃れた神社は、家に帰るまでのほんの数分、息を止めるのをやめられるだけの「避難所」でしかなかった。
「……帰るか」
俺は軽く頭を下げて、くるりと踵を返す。
その時だった。
「そなた、なにゆえ願わぬ?」
どこからか、鈴を転がすような声がした。
風の音かと思ったが、はっきりと誰かが俺に呼びかけている。
「……?」
振り返るが――誰もいない。
あるのは屋根瓦が崩れかけた拝殿と、朽ちた賽銭箱だけ――
いや、違う。
「ここじゃ、ここ。上じゃ」
視線を上げると賽銭箱の縁に、ちょこんと座っている「何か」がいた。
真っ白な浴衣のような着物をまとい、銀色のおかっぱ頭の髪が、重力に逆らうようにふわふわと宙を揺れている。
ルビーのような赤い瞳に、透き通るような白い肌。
見たところ幼稚園児くらいの、小さな男の子だった。
廃墟のようなこの場所で、その存在だけが、発光しているように異質だった。
「……は?」
近所の子供か? いや、こんな時間に?
それに、その格好。どこかの劇団の子役みたいな――
いやいや、こんなど田舎に?
そいつは俺を見下ろし(といっても、賽銭箱の上に座ってやっと俺と目線が合うくらいやけど)、不満げに頬を膨らませた。
「そなたじゃよ、そなた。――毎日毎日、ここに来ては鈴を鳴らすくせに、なぜ何も願わぬ?」
「……なぜって……いや、つか、お前……見とったんか」
「見ておったとも。なんと言ったって、麿は暇じゃからな!」
彼は「えへん」と、着物の胸元を張ってふんぞり返った。……が、すぐに「あ」と思い出したように、大きな赤い瞳で俺を覗き込んでくる。
「……そなた、名は?」
その問いに俺は少し戸惑う。
誰かに名を名乗るなんて、いつぶりだろうか。それに学校でも、俺はただの背景で、名前を呼ばれることなんて滅多にない。躊躇いながらも、俺はぽつりと答えた。
「……ユウト」
「ほう! ユウトか。してユウトよ。人の家に来て挨拶だけして帰るとは、いささか無礼ではないか?願いの一つくらい置いていけばよいものを」
そいつは偉そうに腕を組んだ。
その仕草は年寄り臭いが、見た目が幼すぎてただの生意気な子供にしか見えない。
「願い願いって……さっきから何や……お前、アレやろ、迷子なんやろ。俺、お巡りさんやなかけんな。交番行きんしゃい、……ほれ、はよはよ」
俺はため息をついて、背を向けた。
関わると面倒くさそうだ。最近の子供は妙に設定が細かい「ごっこ遊び」をすると聞くし。
「ま、待て! 待たぬか無礼者!」
背後でドサッ、と何かが落ちる音がした。
振り返ると、ちびっこが賽銭箱から転げ落ちたのか、地面に尻餅をついていた。
「痛……あ痛たた……。最近、実体化の調子が悪くてのう……」
「おい……大丈夫なんかよ」
手を貸そうと近づくと、彼は涙目で俺を睨み上げた。
「さわ、触るでない! まろは神じゃぞ!」
「……は?……いま、な、なんて?」
冗談も大概にしろよ、と俺は心の中で毒づいた。
神様? いるわけがない。もしいたとしても、こんな生意気なガキなわけがないやろ。頭のネジが飛んだごっこ遊びか、それとも俺をからかっているのか。どっちにしろ、これ以上付き合ってられん。
「聞こえなかったのか? 麿こそは、ここ数百年の眠りから覚めた、この社の主……神であると言っておるのじゃ!」
そいつは鼻息荒く言い放ち、着物の裾をパンパンと払って立ち上がると、再び「えへん! 」と小さな胸をこれでもかと反らしてみせた。
まさに「ドヤァ」という効果音が聞こえてきそうな自信満々なポーズだ。
……といっても、身長は俺の股下あたりまでしかないのだが。
「神様ねぇ……」
俺は呆れて、拝殿の奥を指さした。
「神様なら、もっとこう……威厳とかあるやろ、後光が差しとるとかさ」
「今は力が弱っておるから仕方ないじゃろ! お主らが忘れ去るからじゃ!」
「……はいはい。そいじゃ、おれ帰るわ」
「ぬおおお! 信じておらぬな!? その目は信じておらぬ目じゃ!」
ちびっこが俺の学ランの裾を掴もうと手を伸ばす。
だが、その小さな手は、俺の布地に触れることなく――すぅ、と。まるで蜃気楼のように、俺の体をすり抜けた。
「……え?」
俺は自分の腹と、彼の手を交互に見た。
今、確かに、透けたような。
「……し、しまった、気が緩んで透過してしもうた……!」
ちびっこは慌てて自分の手を隠すように背中に回す。
俺は瞬きをして、もう一度そいつを見た。
夕暮れの逆光のせいか、彼の輪郭が、ほんの少しだけ薄らいでいるように見える。
「……お前、何なんよ」
「だから、神じゃと言うておろうが!」
そいつはぷりぷりしながら、それでもどこか泣きそうな顔で俺を見上げている。
が、すぐにバツが悪そうに視線を泳がせ、小さな指先をいじいじと絡ませ始めた。それから、媚びるような、それでいて縋るような上目遣いで、ちらりと俺の顔を覗き込んでくる。
「……そ、それでのう、ユウト。……もう少々、お供え物をくれぬか……? このままだとまろ、腹が減って消えてしまいそうなんじゃ……」
自称・神様の腹の虫が、神聖さの欠片もない音を立てて、ぐう、と鳴った。
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