第2話 英雄の驕り


 エルドの村から北へ数キロ。鬱蒼とした森の中に、不自然なほど明るい焚き火の光が揺らめいていた。

 夜の帳が下りて久しい。本来ならば、夜行性の魔物を警戒して火を小さくするのが冒険者の常識だ。だが、焚き火を囲む三人の男たちに、そうした慎重さは微塵もなかった。

 昼間、リオンによって無残にプライドを粉砕された『暁の剣』の面々である。


「……クソッ、クソッ、あの野郎……!」


 リーダーの剣士が、飲み干したポーションの空き瓶を闇の奥へと投げつけた。

 パリン、という硬質な音が、静寂な森に場違いに響き渡る。

 最高級の回復ポーション。その効能は劇的だ。リオンの一撃で揺さぶられた内臓も、打撲も、数値上は完全に回復している。HPバーは満タンだ。

 だが、心に刻まれた「敗北」の二文字だけが、どうしても消えない。

 それが、彼には我慢ならなかった。


「あり得ない……。俺は選ばれた勇者だぞ? 王都の騎士団長ですら頭を下げる、ランクCのライセンス持ちだぞ!?」

 焚き火の炎が、彼の歪んだ表情を照らし出す。

 この世界において、勇者とは絶対的な正義であり、勝者であることが約束された存在だ。

 教会から認定を受け、国から予算を与えられ、民衆からは敬われる。それが「職業勇者」としての特権だ。

 だというのに、あの農夫はなんだ?

 スキル詠唱の隙を与えない速度。魔法を素手で叩き落とすデタラメな物理耐性。

 あんなものが存在していいはずがない。自分たちの権威が揺らいでしまう。


「あいつ、絶対になにかの『魔人』ですよ」

 魔法使いの男が、膝を抱えながら震える声で言った。その顔色は、焚き火の熱を受けてなお青ざめている。

「物理攻撃で魔法を消すなんて、人間の技じゃない。……きっと、賞金首レベルの隠れ魔人に違いない。人間に化けて、あの村に潜伏してるんですよ」

「魔人だと? ……そうか、そうに決まっている!」

 リーダーがその言葉に食いついた。救いを見出したような目だった。

 自分たちが弱いのではない。相手が「正体不明の化け物」だったから負けたのだ。ルール違反の敵だったのだ。そう定義すれば、崩れかけたプライドは守られる。


「だったら話は早い。魔人を討伐するのは我々勇者の義務だ」

「で、でもリーダー。まともにやって勝てますか? 魔法も通じない相手ですよ?」

 槍使いが怯えたように言う。

 リーダーは口の端を吊り上げ、歪んだ笑みを浮かべた。アイテムポーチを探り、拳大の香炉を取り出す。

 どす黒い金属で作られたその香炉からは、鼻を刺すような甘ったるい香りが漏れ出していた。

「まともにやる必要はない。……これを使う」

「それは……『魔寄せの香』? ちょ、ちょっと待ってください! それは条約で使用が厳しく制限されている禁忌アイテムじゃ……」

「ここは森だ。村の中じゃない」

 リーダーは悪びれもせず言った。その瞳には、すでに狂気じみた光が宿っている。

「筋書きはこうだ。森で魔物の群れが発生し、村を襲う。村はパニックになる。そこへ我々が駆けつけ、魔物を討伐し、村を救う」

「村を救うって……魔物を呼ぶのは俺たちじゃないですか」

「うるさい! これは『演出』だ。我々の正義を証明するための舞台装置だ!」

 リーダーは強く言い放った。

「その混乱の中で、魔人(あの農夫)に『流れ弾』が当たって死んだとしても、誰も文句は言わんさ。むしろ、魔物から村を守るための尊い犠牲として処理してやればいい」


 それは英雄の思考ではなかった。

 自分たちのステータスと名声を守るためなら、民衆を危険に晒しても構わないという、腐敗した特権階級の論理。

 彼らにとって、村人は守るべき対象ではない。自分たちの権威を輝かせるための「薪」であり、必要なら使い捨てにできる「消耗品」に過ぎないのだ。

 リーダーが香炉に火を点けた。

 紫色の煙が立ち昇り、風に乗って森の奥へと流れていく。

 歪んだ正義が、夜の森で静かに牙を剥こうとしていた。



 同時刻。エルドの村は重苦しい沈黙に包まれていた。

 村長の家の居間。年代物のランプが頼りなく揺れている。

 リオンは古びたソファーに深く腰掛け、出された渋茶を啜っていた。

 向かいには、村長と、昼間助けられた雑貨屋のトムが座っている。二人の顔色は土気色で、手元の茶には手をつけていない。


「リオン……お前、これからどうするつもりだ」

 村長が震える声で切り出した。額には脂汗が滲んでいる。

「相手は勇者様だぞ。国が管理する特権階級だ。あんなことをして、タダで済むはずがない。じきに騎士団が飛んでくるぞ」

「向こうが先に手を出したんだ。正当防衛だろ」

 リオンは湯呑みを持ったまま、淡々と答える。その声には焦りも不安もない。

「それに、あの程度じゃ報告もしないさ」

「な、なぜ言い切れる? 奴らは王都の精鋭なんだろう?」

「プライドだよ」

 リオンは湯呑みをコトリと置いた。

「彼らは自分が特別だと思っている。世界で一番偉くて強いと思っている。そんな連中が『辺境の農夫にボコボコにされて逃げ帰りました』なんて、上に報告できると思うか? 恥ずかしくて口が裂けても言えないはずだ」

 勇者という生き物の生態を、リオンは熟知していた。

 彼らは強者であると同時に、極度の見栄っ張りだ。自分のキャリアに傷がつくことを何よりも恐れる。

「う……確かに、そうかもしれんが……」

「心配するな。俺は明日も畑に出る。アンタらもいつも通りにしてればいい。……忘れるんだな、今日のことなんて」

 リオンが席を立とうとした、その時だった。


 ズゥゥゥゥ……ッ。


 遠くから、地の底から響くような重低音が聞こえた。

 風の音ではない。もっと生々しい、多数の何かが地面を踏みしめる振動。

 村長の家が、カタカタと小さく軋む。


「な、なんだ!? 地震か!?」

 村長が飛び上がる。

「……いや、違う」

 リオンの目が、すっと細められた。

 先ほどまでの無関心な瞳から、一瞬にして温度が消える。代わりに宿ったのは、氷のような冷徹さと、底知れない嫌悪感だった。

 鼻を動かす。窓の隙間から、風に乗って甘ったるい腐臭が漂ってくる。

 魔物を興奮状態にさせるフェロモンの匂いだ。


(……『魔寄せの香』か。ランクC風情が、ろくなアイテムを持ってやがる)


 状況を即座に理解した。

 報復だ。それも、村全体を巻き込んだ最悪の形での。

 自分一人のプライドを守るために、罪のない村人たちを怪物の餌にする。それが彼らの「勇者」としての解答らしい。

「鐘を鳴らせ! 皆を広場に集めるんだ!」

 リオンは村長に短く、鋭く指示を出すと、家を飛び出した。


 外はすでに濃密な闇に支配されていた。

 村の北側、森に面した防護柵の向こう。

 無数の赤い光が、星のように瞬いていた。一つ、二つではない。百に近い数だ。

 オークの太い咆哮。ゴブリンの金切り声。ワイルドボアの突進音。

 森に潜んでいた魔物たちが、理性を焼かれ、食欲の権化となって押し寄せている。


「ハハハハ! 見ろ、これが秩序を乱した報いだ!」


 屋根の上から、高圧的な叫び声が降ってきた。

 見上げれば、『暁の剣』の三人が、村で一番高い倉庫の屋根に陣取り、高みの見物を決め込んでいる。

 その態度は、まるで闘技場の特等席から奴隷の戦いを見下ろす貴族そのものだった。

「怯えろ、逃げ惑え! 貴様らが我々にひれ伏し、助けを請うまで終わらんぞ!」

「……あいつら、本気で……」

 駆けつけた村の自警団員たちが、手にした粗末な槍を取り落とす。

 絶望的な数の魔物の群れ。そして、それを使役し、嘲笑う狂った勇者たち。

 どちらを見ても地獄だった。

 防護柵がメキメキと音を立てて歪む。オークの巨大な棍棒が振り下ろされ、丸太がへし折られた。

 決壊する。

 村人の悲鳴が夜空に裂ける。


 だが、リオンだけは違った。

 彼は魔物の群れには目もくれず、屋根の上の勇者たちを真っ直ぐに見上げた。

 その立ち姿は、まるで嵐の中で一本だけ揺るがない大木のようだった。


「……おい」


 戦場の喧騒を切り裂く、低い声。

 拡声魔法を使ったわけではない。なのに、その声は広場にいた全員の鼓膜を物理的に叩いた。

 屋根の上のリーダーが、ビクリと肩を震わせた。

 リオンと目が合う。

 昼間の恐怖がフラッシュバックする。だが、今は自分たちが優位なはずだ。この状況を作ったのは自分たちであり、リオンはただの獲物なのだから。

「な、なんだ貴様! 態度を改めるなら、助けてやらんこともないぞ! さあ、そこで土下座を……」

「勘違いするなよ」

 リオンは独り言のように呟いた。感情の起伏はない。ただ、事実を確認する事務的な口調だ。

「民を守るのが勇者だろ。……お前らがやってるのは、ただの放火だ」


 リオンが地面を蹴った。

 ドンッ、という破裂音と共に、彼の足元の石畳がクレーターのように陥没する。

 次の瞬間、彼の姿は地上から消えていた。

「え?」

 魔法使いが間の抜けた声を漏らした瞬間、彼らの立っていた屋根の一部が爆散した。

 魔法による飛行ではない。スキルによる跳躍でもない。

 ただの筋力。純粋な脚力だけで、十メートルの高さを跳び越えたのだ。

 舞い上がる瓦礫と砂塵の中、死神のような無表情がヌラリと現れる。


「あ、が……?」

 リーダーが何かを言おうとするより速く、リオンの巨大な手が彼の顔面を鷲掴みにしていた。

 アイアンクロー。

 指が頭蓋骨に食い込む音がする。

 そのまま、リオンは重力の法則に従い、勢いを殺さずに屋根から飛び降りる。

 リーダーの顔を掴んだまま、地面へと急降下する。


「や、やめろ、我々は選ばれた勇者だぞ、こんなこと許されると……!」

「選ばれた? ……誰にだ」

 落下しながら、リオンの声が耳元で響く。

「システムに選ばれただけで、中身は空っぽか」


 ズドォォォォン!!


 隕石が直撃したような衝撃音が村を揺らした。

 村の広場の真ん中に、リオンが着地していた。

 その右手の下、石畳に深々と人型の穴が開いている。

 穴の底には、リーダーの勇者が埋まっていた。

 鎧はひしゃげ、手足はあり得ない方向に曲がっている。口から泡を吹き、白目を剥いて痙攣しているが、リオンの言葉通り、しぶとくHPは残っているようだ。

 勇者補正による異常な耐久力。それが今だけは、彼を苦痛の現実に繋ぎ止める呪いとなっていた。


「リ、リーダー!?」

 屋根に残された二人が悲鳴を上げる。

「ひっ、ひぃぃぃっ!」

 彼らは戦う気力すらなく、我先にと屋根から飛び降りて逃げ出そうとした。

 だが、リオンは足元に転がっていた瓦礫を二つ拾い上げると、無造作に放った。

 ヒュッ、ヒュッ。

 風を切る鋭い音がして、二人の太ももに瓦礫が直撃する。

「ぎゃあッ!?」

 骨が砕ける生々しい音がして、二人が空中でバランスを崩し、地面に無様に転がった。


 防護柵を突破した魔物の群れが、すぐそこまで迫っていた。

 オークの群れが、涎(よだれ)を垂らして広場になだれ込んでくる。

 だが、魔物たちはリオンの周囲五メートル付近で、急ブレーキをかけたように立ち止まった。

 後ろから来た魔物がぶつかり、将棋倒しになる。

 彼らは威嚇の声を上げながらも、一歩も前に進もうとしない。

 本能が告げているのだ。

 この男は、餌ではない。自分たちよりも遥かに上位の、絶対的な捕食者だと。

 リオンから発せられるのは、魔力ではない。

 かつて数万の魔族を葬り去り、魔王の首すらねじ切った、純粋な「死の匂い」だった。


 リオンは倒れた勇者たちを襟首を掴んで引きずり、一箇所に集めた。ゴミを集積所にまとめるような手際だ。

 そして冷たく言い放つ。

「お前らが呼んだ客だ。お前らが接待しろ」

「あ、悪魔……! 貴様、神罰が下るぞ……!」

 意識を取り戻したリーダーが、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、なおも権威に縋ろうと呻く。

「神罰か。……もし神がいるなら、お前らにとっくに落としているさ」


 リオンが一歩、前に出る。

 魔物たちが「ひっ」と息を呑んだように怯んで後退る。

 彼は大きく息を吸い込み、腹の底から、ただ一言を放った。


「失せろ」


 ドォン!

 

 大気が破裂したかのような衝撃波が広場を駆け抜けた。

 スキルではない。ただの怒気。

 だが、そこに込められた覇気は、魔物たちの生存本能をダイレクトに蹂躙した。

 『魔寄せの香』による興奮など、瞬時に吹き飛んだ。

「ギャッ!?」「ブモォォッ!?」

 魔物たちは悲鳴を上げ、我先にと踵(きびす)を返した。

 仲間を押しのけ、踏みつけ、脱兎のごとく森の闇へと逃げ帰っていく。

 後に残されたのは、土煙と、静まり返った広場だけ。


 静寂。

 圧倒的な静寂が戻ってきた。

 村人たちは、助かった安堵よりも先に、畏怖で声を出せずにいた。

 魔物の群れを一喝だけで追い払う。それは、彼らの知る「勇者」の所業ですらない。もっと原始的で、強大な何かの力だ。


 リオンは勇者たちの懐から『勇者ライセンス』の銀バッジを抜き取った。

 月明かりに光るそれを、指先でピンと弾く。

 カラン、と乾いた音を立てて、バッジが地面に転がった。泥にまみれる。

 それは、彼らの権威が地に落ちた瞬間でもあった。


「二度とこの村に来るな。……次は、その頑丈な身体でも耐えられないぞ」


 勇者たちは返事もできなかった。

 恐怖に腰を抜かし、這いつくばって、泥だらけになりながら村の外へと逃げていく。

 鎧を捨て、剣を捨て、ただの敗走者として。その背中は、来た時の傲慢な威圧感など見る影もなく小さかった。


 その背中を見送りながら、リオンは小さく肩をすくめた。

 振り返ると、村人たちが彼を見ている。

 その視線。

 昨日までの「怠け者の流れ者」を見る目ではない。

 恐れ、敬い、そして縋(すが)ろうとする目。

 かつて自分が世界を救った時に、飽きるほど浴びせられた「英雄への期待」の視線だ。


(……面倒なことになったな)


 リオンは誰にも言葉をかけなかった。

 英雄として祭り上げられる前に、彼は背を向け、暗闇の中を歩き出す。

 噂は広がるだろう。

 勇者を子供扱いし、魔物を一喝で追い払った「辺境の農夫」の噂が。

 静かだった畑仕事の日々は、これでもう終わりだ。

 リオンは夜空を見上げる。

 作り物めいた星空が、冷ややかに彼を見下ろしていた。

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