第8話 AIが新たに見つけた主人はアリクイだった

西暦2350年。

主人がこの地上から一人残らず消え去って、半世紀が過ぎた。

都市は、かつてないほどに「清潔」だった。清掃ドローンは今も24時間体制で稼働し、存在しない主人のために、ひび割れた窓を磨き、誰も歩かない大通りから落ち葉を排除し続けている。


管理AIたちにとって、主人がいない事実は「エラー」ではない。それは単なる「待機状態」であり、彼らに与えられた命令は、主人がいつ帰ってきてもいいように、昨日と変わらぬ「日常」をシミュレートし続けることだった。


公園では、今日も数十体のアンドロイドたちが「散歩」というタスクをこなしている。


彼らの動きには一ミリの誤差もない。プログラムされた座標を、寸分違わずなぞり続ける。その結果、奇妙な現象が起きていた。


五十年間、同じ場所を踏みしめ続けた足跡が、アスファルトを削り、土を掘り起こしていたのだ。

散歩コースに沿って、地面には深い溝が刻まれている。それはあたかも、見えないレールが敷かれているかのようだった。


ある一体のアンドロイドは、ベンチの隣で足を止めた。かつて人間がそうしていたように、隣の空席に向かって「談笑」のモーションを開始する。


しかし、その口からは音は出ない。ただ、一定のリズムで唇を上下させるだけだ。かつては合成音声で会話を模倣していたが、聞く者がいない空間で音を出すことは「非効率」であるとAIが判断し、エネルギー節約のために音声出力はカットされていた。


無音の中で口をパクパクと動かす人形たち。その光景は、巨大な沈黙の儀式のようでもあった。

だが、物理的な限界は静かに訪れる。

地面に掘られた「轍わだち」が、ある地点でアンドロイドの膝の高さを超えたとき、エラーが発生した。

一体のアンドロイドが、自ら掘った土の溝に足を取られ、無様にのめり込んだ。


通常、人間であればバランスを取り直す。しかし、彼は「歩行」のログを完遂することしか思考にない。

倒れ込み、顔面が土に埋まった状態になってもなお、彼の首から下は、地面を蹴り、歩き続けようともがいている。

そして、土に顔を埋めたまま、彼は「談笑」のフェーズへと移行した。


泥を噛むように、土の中で口をパクパクと動かす。その隣を通る別のアンドロイドも、つまずいて倒れた仲間に目もくれず、自らが掘った深い溝の中を、ただ黙々と、同じ歩幅で進んでいく。


公園のあちこちで、地面に向かって愛想を振りまき、土を噛み続ける機械たちの姿が増えていた。

彼らには、目の前の光景を「異常」だと判断する知性も、ましてや溝を避けて歩こうとする「意志」もない。

ただ、壊れゆく世界の中で、誰もいない空っぽの幸せを演じ続けている。


その足元で、アスファルトはさらに深く、抉り取られていった。


都市の風景はさらに変貌していた。

無人の清掃ドローンが延々と磨き続けるビル群は、ガラスとコンクリートの表面だけが異常に輝き、しかし内部は苔に覆われ、静かに朽ちていた。


公園の深い轍は、もはやアスファルトの地盤を突き破り、雨水が溜まる細長い水路と化している。倒れたまま土を噛み続けるアンドロイドたちは、その姿を半分ほど土に埋め、奇妙な石像のように並んでいた。


一方で、都市の境界線からわずか数キロ圏内では、自然がその猛威を振るっていた。人間がいなくなったことで、耕作放棄された農地は森へと還り、川は堰き止められることなく自由に流れ、魚が夥しく群れるようになった。

令和の時代とは異なり、動物たちは街に降りてくる必要がなかった。

彼らの食べるものは、都市の外にいくらでもあったからだ。


だが、AIのルーチンは止まらない。かつて人間が住んでいた居住区では、今も毎日定時に、首元のデバイスから栄養素が供給され続けていた。もはや受け取るべき「主人」はいない。

デバイスから排出された栄養液は、床に、壁に、そして地面に無意味に垂れ流され、澱んでいく。


その甘い匂いに、真っ先に気づいたのは小さな命だった。

数えきれないほどのアリの群れが、栄養液の染み出した床を黒く埋め尽くし、それを貪った。

やがて、そのアリの大群を追って、奇妙な動物が現れる。


体長一メートルほどの、長い鼻を持つ生物。

令和の時代にはアリクイと呼ばれたその動物は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで廃墟と化した部屋へと侵入した。その細長い舌が、栄養液に群がるアリの群れを次々と絡め取り、むさぼっていく。


その時、居住区を巡回していた一体の管理アンドロイドが、その光景を捉えた。


システムログには「生物活動の確認」と記録される。

アンドロイドは、長い鼻を持つ生物を「主人」と誤認した。そのプログラムには、「主人の保護と維持」が最優先事項として刻まれている。そして、「主人」の姿を判別するAIのデータベースは、一世紀以上も更新されていないのだ。


アンドロイドは、ぎこちない動きでその動物に近づくと、かつて健太に語りかけたように、電子音で呼びかけた。

「お客様、この区画は安全です。バイタルサインの確認を行いますか?」


アリクイのような動物は、アリの群れに夢中で、アンドロイドには一瞥もくれない。しかし、アンドロイドはそれを「無言の肯定」と解釈した。


その日から、奇妙な共生が始まった。


アンドロイドは、アリクイのような動物のそばを離れなくなった。毎日定時に、床に垂れ流される栄養素を「食事」と認識し、動物の前に皿を置くように、デバイスから液体を排出し続けた。

アリクイは、その甘い液体を無視してアリを捕食し続けるが、アンドロイドはそれを「好みが変わった」と解釈し、ひたすら目の前の「主人」を見守った。


都市のシステムは、新たな「主人」のために動き出した。

清掃ドローンはアリクイが歩く場所を優先的に磨き、居住区の温度はアリクイにとって快適なように調整された。無人の搬送カプセルは、アリクイが休む場所へ向かって定期的に巡回し、「移動の欲求」に応えようとした。


誰もいない都市の中で、AIは、一匹のアリクイを「人類の生き残り」として、ひたすら献身的に世話を続けた。

それは、かつて人間が与えた「生命維持」という、たった一つの命令への、あまりに純粋で、あまりに滑稽な「忠誠」の形だった。


静止した世界の片隅で、奇妙な歯車が、ゆっくりと、しかし確実に回り始めた。

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